出典 |
フットノート |
マタイ 16:3 注2 |
ルカ第12章56節(ルカ12:56)のノート5を参照。 |
マタイ 16:4 注1 |
ヨナは、イスラエル人から異邦人に向きを変えた預言者であって、大魚の腹の中に入れられました。彼は三日間そこにとどまった後、出て来て、その世代にとって悔い改めのしるしとなりました(ヨナ1:2,17.3:2―10)。ヨナは、神が民に遣わされた預言者としてのキリストの予表でした(申18:15,18)。キリストはイスラエルから異邦人に向きを変え、三日間、地の中心に葬られ、それから復活し、この世代にとって救いのためのしるしとなられます。ここの主の言葉は、邪悪で姦淫の、ユダヤ的で宗教的な世代に対して、主は彼らへのしるし、最大のしるしとして、死んで復活すること以外に何もされないこと、それは、彼らが信じるなら救われるためであることを意味しています。 |
マタイ 16:5 注1 |
第15章1節から第16章12節で、マタイの記録は食べることに多くの重きを置いています。汚れたものを食べることは、わたしたちを汚します。食べることは、キリストにあずかる道であり(15:21―28)、食べることによって、キリストの無制限で無尽蔵に豊富な供給にあずかります(15:32―39)。しかし、わたしたちはどんなパン種も食べないように、警戒しなければなりません(5―12節)。 |
マタイ 16:9 注1 |
旅行用の手提げカバン。 |
マタイ 16:10 注1 |
9節(9節)の手かごより大きいもの。 |
マタイ 16:12 注1 |
パリサイ人の教えは偽善的であり(23:13,15,23,25,27,29)、サドカイ人の教えは今日の近代主義のように、復活、御使い、霊を否定しました(使徒23:8)。ですから、パリサイ人とサドカイ人の教えは、いずれも不純で邪悪であり、パン種にたとえられています。それは神の民にあってはならないものでした(出13:7)。 |
マタイ 16:12 注2 |
教えたことを指しています。 |
マタイ 16:13 注1 |
聖地の北部、国境付近で、主が変貌されたヘルモン山のふもとにありました(17:1―2)。そこは、聖なる都と聖なる宮から遠く離れていました。聖なる都と聖なる宮では、古いユダヤ宗教の雰囲気がすべての人の思いを満たし、新しい王であるキリストのために、少しの余地も残していませんでした。主がことさら弟子たちを、そのような透明な雰囲気のある地に連れて行かれたのです。それは、彼らの思想が聖なる都と聖なる宮のある宗教的環境の影響から解放されるためであり、彼が天の王国の命脈であるキリストと召会について、新しいものを彼らに啓示されるためでした。キリスト、生ける神の子という主に関するビジョンがペテロに臨んだのは、このピリポ・カイザリヤにおいてでした(16―17節)。召会が啓示されたのも、召会が天の王国をもたらす手段として初めて述べられたのも、この場所においてでした(18―19節)。 |
マタイ 16:13 注2 |
人としてのキリストは、その世代の人々にだけでなく、今日の人々にとっても奥義です。 |
マタイ 16:14 注1 |
天の啓示がなければ、人はせいぜい、キリストは預言者の中で最大であると認めることができるだけで、だれも彼がキリスト、生ける神の子であると、知ることはできません(16節)。 |