出典 |
フットノート |
コロ 3:3 注1 |
わたしたちは、キリストと共に死にましたから、地にあるもの、特に禁欲主義と関係のある事柄から解放されました。わたしたちは彼の死の中へとバプテスマされました(ローマ6:3)。 |
コロ 3:3 注2 |
わたしたちの命(生まれながらの命ではなく、霊的命、キリスト)は、キリストと共に、天におられる神の中に隠されているのですから、わたしたちはもはや、地にあるものを顧慮すべきではありません。天におられる神が、わたしたちの生活の領域です。わたしたちはキリストと共に、神の中に生きるべきです。 |
コロ 3:3 注3 |
わたしたちの命がキリストと共に神の中に隠されているとは、それがキリストと共に天に隠されている、という意味です。 |
コロ 3:4 注2 |
神の中で、キリストはわたしたちの命です。この命は今、隠されていますが、やがて現されます。その時、わたしたちは栄光のうちに、この命と共に現されるでしょう。 第2章20節から第3章4節(2:20―3:4)に、唯一の道と唯一の方が啓示されています。唯一の道とは十字架であり、それは神の行政の中心です。唯一の方とはキリストであり、彼は卓越した、すべてを含む方であって、宇宙の中心です。禁欲主義ではなく、十字架によって、わたしたちは否定的な事柄から救われました。そして哲学ではなく、キリストによって、神の中に隠された命を生きます。 わたしたちの命なるキリストは、聖徒たちの割り当てられた分(1:12)、見えない神のかたち(1:15)、全被造物の中で最初に生まれた方(1:15)、死人の中から最初に生まれた方(1:18)、神の豊満が住んでいる方(1:19.2:9)、神のエコノミーの奥義(1:26)、神の奥義(2:2)、すべての積極的な事柄の実際(2:16―17)、新しい人の構成要素(10―11節)です。そのようなすべてを含むキリストを命とし、彼を生きることによって、わたしたちは彼のあらゆる豊富を経験し、享受します。 |
コロ 3:4 注1 |
キリストがわたしたちの命であるとは、わたしたちが彼を命とし、彼によって生きるべきであることを、強く示します。わたしたちが日常生活の中で彼を生きるのは、本書に啓示されているように、宇宙的に広がるキリストを経験するためです。それは、彼であるすべて、彼が到達し、獲得されたすべてが、客観的なままでなく、わたしたちの主観的な経験となるためです。 |
コロ 3:5 注2 |
わたしたちの罪深い肢体の中に、罪の法則があって、わたしたちを罪のとりこにし、腐敗した体を死の体とならせています(ローマ7:23―24)。ですから、わたしたちの罪深い肢体は、淫行、汚れ、激情、邪悪な欲、むさぼりなどの罪深いものと同一視されます。 |
コロ 3:5 注1 |
これは、わたしたちが、キリストと共に十字架につけられ(ガラテヤ2:20前半)、彼の死の中へとバプテスマされた(ローマ6:3)事実に基づいています。わたしたちは信仰によって、その霊の力を通して、自分の罪深い肢体を十字架につけることによって、その上にキリストの死を執行します(ローマ8:13)。これは、ガラテヤ人への手紙第5章24節(ガラテヤ5:24)と一致します。キリストは、すべてを含む十字架を成就されました。今やわたしたちはそれを、自分の情欲に満ちた肉に適用するのです。これは、絶対に禁欲主義とは違います。 |
コロ 3:9 注2 |
エペソ第4章22節(エペソ4:22)のノート4を参照。 |
コロ 3:9 注1 |
古い人を脱ぎ捨てるのは、古い衣服を脱ぎ捨てるようにです。まず、わたしたちは体の情欲を死に渡し、次に、心理的な悪を捨て去り、最後に、古い人をその行ないと共に脱ぎ捨てます。これは、わたしたち自身の能力によるのではなく、すべてを含む霊の力によります。 |
コロ 3:10 注2 |
このギリシャ語は、時間に関して新しい、という意味です。エペソ人への手紙第4章24節(エペソ4:24)の言葉は、性質、特性、形において新しいことを意味します(新しい人については、エペソ4:24のノート2、第一段落を参照)。キリストは新しい人の構成要素ですから、わたしたち、新しい人は、キリストと一です。これは、本書の最も基本的で、重要な点です。 |