出典 |
フットノート |
コロ 3:15 注1 |
キリストの平安は、キリストご自身です。この平安によって、キリストは二つの民、ユダヤ人と異邦人を、一人の新しい人にされ、そしてこの平安は、福音の一部となりました (エペソ2:14―18)。わたしたちはからだの生活のために、この平安に、わたしたちの心の中を裁定させるべきです。 |
コロ 3:15 注2 |
あるいは、審判する、つかさどる、あらゆることの支配者、決定者としての位に就く。わたしたちの心の中の、キリストの裁定する平安は、13節(13節)に述べられている不満を解決します。 |
コロ 3:15 注3 |
「この」は、キリストの平安を言います。わたしたちはキリストの一つからだの中で、この平安に召されました。正当なからだの生活のために、わたしたちは彼のからだの肢体との関係において、わたしたちの心の中で、キリストの平安にあらゆることを裁定させ、調整させ、決定させる必要があります。 |
コロ 3:15 注4 |
キリストの平安にわたしたちが召されたことは、この平安にわたしたちの心の中を裁定させることの、動機でもあるはずです。 |
コロ 3:15 注5 |
わたしたちは、キリストの平安に心の中を裁定させるだけでなく、主に対して感謝にあふれているべきです。からだの生活では、わたしたちの心はいつも、肢体に対しては平安の状態にあり、主に対しては感謝にあふれているべきです。 |
コロ 3:16 注4 |
「知恵を尽くして」という句は、「教え、戒め」の前に置いて、それを修飾することもできます。 |
コロ 3:16 注1 |
キリストによって語られた言葉。神の新約エコノミーにおいて、神は御子の中で語られます。御子は、福音書の中でご自身によってだけでなく、使徒行伝、書簡、啓示録の中で、彼の肢体、使徒たちと預言者たちを通して語られます。これらすべての語りかけは、彼の言葉と考えることができます。 この箇所では、賛美と歌となってあふれ出る霊の命の満たしは、言葉と関係があります。しかし、ここと類似している節であるエペソ人への手紙第5章18節から20節(エペソ5:18―20)では、霊の命の満たしはその霊と関係があります。これは、言葉がその霊であることを示しています(ヨハネ6:63後半)。正常なクリスチャン生活は、言葉で満たされており、その霊が信者たちの内側から、賛美と歌のしらべとなってわき上がってくる生活です。 本書の中心は、わたしたちのかしらと命であるキリストです。彼がご自身の頭首権を行使し、彼の豊富をわたしたちに供給する道は、彼の言葉を通してです。ですから、強調点はキリストの言葉にあります。エペソ人への手紙は、キリストのからだとしての召会に関するものです。わたしたちが正常な召会生活を生きる道は、霊の中で満たされて、神の全豊満へと至ることです。ですから、その霊が強調されています。エペソ人への手紙では、聖霊とわたしたちの霊が、繰り返し強調されています。言葉は、その霊とさえ見なされています(エペソ6:17)。ところが本書では、二つの霊はそれぞれ一度、述べられているにすぎません(1:8.2:5)。エペソ人への手紙では、言葉はわたしたちの天然の命を洗い流し(エペソ5:26)、敵に対抗して戦うためです(エペソ6:17)。しかし本書では、言葉はキリストの卓越性、中心性、普遍性を啓示するためです(1:25―27)。 |
コロ 3:16 注3 |
キリストの豊富 (エペソ3:8)は、彼の言葉の中にあります。そのような豊富な言葉は、わたしたちの内に豊かに住んでいなければなりません。 |
コロ 3:16 注2 |
文字どおりには、家の中にいる、内住する、居住する。主の言葉は、わたしたちの内側に、十分な地位を持たなければなりません。それは、言葉がキリストの豊富を、わたしたちの内側へと働き、供給し込むためです。 |
コロ 3:16 注7 |
わたしたちは、言葉だけでなく、詩と賛美と霊の歌によっても、教え、戒めるべきです。 |