出典 |
フットノート |
コロ 4:15 注2 |
ある写本では、彼女の、他の人たちの、彼らの、となっています。 |
コロ 4:15 注1 |
ヌンパの家の召会は、ラオデキヤに在る地方召会であって、それは、ヌンパの家で集会していました。聖徒たちの家でのそのような集会は、参加しているすべての信者に、機能する機会を与えます。そして、聖徒たちの相互の交わりを強めます。 |
1テサ 1:1 注3 |
この章で三一の神が啓示されています。わたしたちに対する彼の三一の働きにおいて、御父はわたしたちを選び(1,3―4節)、御子はわたしたちを救い(10節)、聖霊はわたしたちの中に三一の神を増殖し、分け与え、伝達されます(5―6節)。そのような三一の働きは、彼の救いをわたしたちが享受するためです。 |
1テサ 1:1 注2 |
テサロニケはローマ帝国の都市の一つで、それはアカヤ州の北部、マケドニヤ地方にありました。それは、使徒パウロと彼の同労者シルワノが、第二回目の務めの旅行中にパウロが受けたマケドニヤ人の招きにしたがって、ピリピの次に訪問した二番目の都市でした(使徒16:9―12.17:1―4)。そこに使徒が滞在して働いたのは、ほんの短い期間でした。おそらく一か月足らずであったでしょう(使徒17:2)。 |
1テサ 1:1 注1 |
この手紙と第二の手紙は、テサロニケ市のキリストにあるすべての信者から成る、テサロニケに在る地方召会へあてられました。そのような地方召会は、信者たちから成り、父なる神と主イエス・キリストの中にあります。これは、そのような地方召会が、父なる神から彼の命と性質を伴って生まれ、主キリスト・イエスであるすべて、彼が行なわれたすべての中で、彼と有機的に結合されていることを示します。ですから召会は、(テサロニケ人のような)人に属してはいますが、有機的には神の中にあり、また主の中にあるのです。このような神聖な命と性質にある有機的な結合は、信者たちが召会生活のために聖なる生活をするための、最も重要な基礎です。このような生活が、二つの手紙の主題です。 |
1テサ 1:3 注2 |
ここの信仰は、働きの性質と力を指しています。愛は労苦の動機と特徴であり、望みは忍耐の源です。これは、信仰と愛と望みをもって構成された、真のクリスチャン生活の構造を描写しています(参照,Iコリント13:13のノート1)。そのような生活は、信者の天然の能力から始まるのではなく、彼らが信じている神であられるものを注入されて始まります。そしてこの生活は、信者たちの犠牲的愛によって遂行されます。この犠牲的愛とは、一方で、彼らのためにご自身を与えてくださった愛する主に対するものであり、もう一方では、愛の中でキリストの死を通して贖われた肢体たちに対するものです。そして、この生活は、彼らの愛する方、すなわち、彼らを迎えに来ると約束された方、この主を待ち望む望みの保持する力によって、変わらず継続し、立ち続けます。そのような生活が、この手紙の内容です。 一か月足らずの使徒の短期間の務めを通して、テサロニケの信者たちがそのような生活をすることができたとは、何と驚くべきことでしょう! このことは、信仰の全き確信をもって、完全な福音を典型的な未信者に宣べ伝え、クリスチャン生活に関するさらに深い真理を初信者に供給するようにと、わたしたちを励まします。 若いテサロニケに在る召会に対する二つの手紙の中で、正当な召会生活のための真のクリスチャン生活が、簡潔に啓示されています。それは、主の再来の観点から見た三つの面がある生活です。一つの面は、始まりとしての信仰、すなわち基礎、もう一つの面は、過程としての愛、すなわち構造、もう一つの面は、究極としての望み、すなわち完成です。信仰は神に向かってであり(8節)、愛は聖徒たちに向かってであり(3:12.4:9―10)、望みは主の来臨においてです(2:19)。第一の手紙は励ましと慰めのためであり、第二の手紙は是正と均衡のためです。信者たちは、主の再来の望みの中で信仰と愛によって生き、歩き、働くべきです。しかし、主はすぐにも来られるのだから、わたしたちは長期の計画を立てる必要はない、という誤った観念を持つべきではありません。召会生活のためのクリスチャン生活に関する使徒パウロの手紙は、ローマ人への手紙で始まり、この二つの手紙で結んでいます。 |
1テサ 1:3 注1 |
ギリシャ語は行為、行動、活動を示します。 |
1テサ 1:3 注3 |
あるいは、骨折り、努力、奮闘、働き。 |
1テサ 1:3 注4 |
すなわち、わたしたちの主イエス・キリストにある望みから生じる忍耐。 |
1テサ 1:4 注1 |
神の永遠の目的のために、この世の基が置かれる前から神に選ばれたこと(エペソ1:4)。使徒たちは、神に愛された兄弟たちが、神の心の願いの成就のために、このようにして神に選ばれたことを知っていました。 |