出典 |
フットノート |
1テサ 1:5 注1 |
使徒たちは、福音を宣べ伝えただけではなく、福音を生きました。福音を宣べ伝える彼らの務めは、言葉によってだけでなく、神の力を展覧する生活、すなわち、聖霊の中で、また信仰の確信にある生活によってでもありました。彼らは自分たちが宣べ伝える福音の模範でした。 |
1テサ 1:6 注2 |
パウロが宣べ伝えた言葉は、三一の神の化身であって、御父、御子、聖霊を、キリストにある信者たちの中へと伝え、伝達しました。神聖な福音であるこの言葉は、典型的な異邦人の未信者であったテサロニケ人に受け入れられました。 |
1テサ 1:6 注1 |
宣べ伝える者たちが福音の模範であったので、信者たちは彼らに倣う者になりました。ですから、このことは信者たちを導いて主に従わせ、主を彼らの模範とさせました(マタイ11:29)。 |
1テサ 1:7 注1 |
使徒たちに倣う者(6節)は、他のすべての信者の模範となりました。 |
1テサ 1:8 注1 |
これは、神に対する信者たちの信仰が、主の言葉と共に響き渡ったことを意味します。主の客観的な言葉だけでなく、信者たちの主観的な信仰も、広く伝わったのです。 |
1テサ 1:9 注1 |
受け入れられる歓迎を暗示します。 |
1テサ 1:9 注2 |
偶像から神に向きを変えること、生けるまことの神に仕えること、天から来られる御子を待つこと、これらは、別の角度から見たクリスチャン生活の三つの基本的な要素です。偶像から神に向きを変えるとは、偽りの神々と、その背後にいる悪魔や悪鬼どもからだけでなく、神以外のすべてのものからも向きを変えることです。これは、福音の言葉を聞くことを通して、初信者の中へ注入された信仰によって成し遂げられます。生けるまことの神に仕えるとは、手順を経て、信者たちの命と命の供給となり、彼らに享受を与える三一の神、すなわち父、子、霊に仕えることです。彼らは、神を礼拝の対象としてだけでなく、彼らの中に生きているすべてを含む供給する方として、経験すべきです。この経験は、愛によってもたらされます。この愛は、御子を通して、その霊にある、御父の豊かな供給の甘い味わいによって、信者たちの内側に生み出されます。天から来られる神の御子を待ち望むとは、受肉、人の生活、十字架を経過して、復活の中に入り、昇天し、信者たちを栄光の中へと迎えに戻ってこられる方を待つことです。これは、信者たちを強めて、信仰の中にしっかりと立たせる望みです。 |
1テサ 1:9 注4 |
生けるまことの神は、死んだ偽りの偶像と対照的です。神は、わたしたちの日常生活の中で、わたしたちにとって、わたしたちの中に生きておられ、まことでなければなりません。こうして、わたしたちの現在の生活は、わたしたちの仕えている神が生きていて、まことであることを証しします。 |
1テサ 1:9 注3 |
文字どおりには、奴隷として仕える。 |
1テサ 1:10 注2 |
神の来たるべき裁きの激怒です(ローマ2:5―6,8―9)。 |