出典 |
フットノート |
マタイ 16:22 注1 |
天然の人は、決して十字架を負いません。 |
マタイ 16:23 注1 |
十字架を負うのを妨げているのは、ペテロではなくサタンであることを、キリストは見抜かれました。これは、わたしたちの天然の人が、進んで十字架を負うことをしないで、サタンと一つであることを啓示しています。 |
マタイ 16:23 注2 |
あるいは、あなたはわたしのつまずきである。 |
マタイ 16:23 注3 |
思いを神の事柄にではなく人の事柄に付ける時、わたしたちはサタンとなり、主が神の目的を成就する途上で、彼のつまずきの石となります。 |
マタイ 16:24 注2 |
23節から25節(23―25節)で、三つの事が互いに関係し合っています。それは、「思い」、「自分」、「魂の命」です。思いは自己の表現であり、自己は魂の命の化身です。魂の命は自己の中に化身し、自己によって生かし出されます。わたしたちの自己は、思い、思想、観念、意見を通して表現されます。思いを神の事柄にではなく、人の事柄に付ける時、わたしたちの思いは自ら行動し、それ自身を表現する機会を得ます。これが、ペテロに起こったことでした。ですから、続く主の言葉は、ペテロが「自分」を否まなければならない、自分の魂の命を救うのではなく、それを失わなければならないと言われたのです。魂の命を失うことは、自己を否むことの実際です。これが十字架を負うことです。 |
マタイ 16:24 注1 |
自分を否むとは、自分の魂の命、天然の命を失うことです(26節.ルカ9:25)。 |
マタイ 16:24 注3 |
十字架は苦難だけでなく、殺しです。それは犯罪者を殺し、終わらせます。キリストはまず十字架を負い、それから十字架につけられました。しかし、わたしたち彼を信じる者は、まず彼と共に十字架につけられ、それから今日、十字架を負います。十字架を負うとは、キリストの死の殺しの下にとどまって、自己、天然の命、古い人を終わらせることです。そのようにして、わたしたちは自己を否み、主に従うことができるようになります。 |
マタイ 16:24 注4 |
主が十字架につけられる前、弟子たちは外側で彼に従いました。しかし主が復活した後、わたしたちは内側で彼に従います。復活の中で、主は命を与える霊と成って(Iコリント15:45)、わたしたちの霊の中に住んでおられるので(IIテモテ4:22)、わたしたちは霊の中で彼に従っていきます(ガラテヤ5:16―25)。 |
マタイ 16:25 注1 |
あるいは、破壊し。 |
マタイ 16:25 注2 |
第10章39節(10:39)のノート1を参照。 |