出典 |
フットノート |
2テサ 1:11 注1 |
あるいは、善を楽しむこと。使徒たちは、神がテサロニケ人の善に対する喜び、楽しみを満たしてくださるようにと祈りました。 |
2テサ 1:12 注1 |
わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みは、命、また命の供給としての、わたしたちの中の主ご自身です。それは、わたしたちが主に栄光を帰し、また彼の中で栄光を受ける生活をするためです。ヨハネ第1章17節(ヨハネ1:17)のノート1、Iコリント第15章10節(Iコリント15:10)のノート1、IIコリント第13章14節(IIコリント13:14)のノート1を参照。 |
2テサ 2:1 注2 |
ギリシャ語は「パルーシア」(parousia)で、「臨在」を意味します。Iテサロニケ第2章19節(Iテサロニケ2:19)のノート1とマタイ第24章3節(マタイ24:3)のノート3を参照。ここで二つの事柄が、扱われています。それは、主のパルーシア(臨在)と、わたしたちが彼のみもとに集まること(携え上げ)です。主のパルーシアは、勝利者が天の神の御座に携え上げられることで始まります(啓12:5―6)。そしてこの時代の最後の三年半、すなわち、最後の週(ダニエル9:27)の後半に起こる大患難(マタイ24:21とノート、啓11:2とノート4)の終わりに、主のパルーシアは空中に来て(啓10:1とノート2)、しばらくの間、続きます。それはその出現、すなわち「彼のパルーシアの出現」で終わります(8節.マタイ24:30とノート4)。主のパルーシアが空中にとどまっている間に、信者の大多数は携え上げられて、空中で主に会います(Iテサロニケ4:17)。文脈によれば、2節(2節)の「主の日」は、主のパルーシア(来臨)の日を言います。その時、信者の大多数が携え上げられます。3節(3節)は、その日が来る前に反キリストが現れて、大患難の中で大きな役割を演じることを、断定的に告げています(4節.啓13:1―8,12―15)。これは、主の空中への来臨(パルーシア)と、信者の大多数の携え上げが、大患難の前には起こり得ないことを、はっきりと明確に啓示しています。 |
2テサ 2:1 注3 |
文字どおりには、彼に向かって。 |
2テサ 2:1 注1 |
あるいは、のために。 |
2テサ 2:2 注2 |
語る霊のことを言っています。それは、神聖な啓示の権威を持つと見せかけ、主張します。 |
2テサ 2:2 注3 |
Iテサロニケ第5章2節(Iテサロニケ5:2)のノート2を参照。 |
2テサ 2:2 注1 |
文字どおりには、思いから。すなわち、「落ち着いた、冷静に判断する思いから」(ダービー)。 |
2テサ 2:3 注1 |
あるいは、だます。「間違った印象を与えるだけでなく、事実上、間違った方向に導くこと」(ビンセント)。 |
2テサ 2:3 注2 |
すなわち、脱落していく(聖書に啓示されている神のエコノミーの真っすぐな道から)。 |