出典 |
フットノート |
1テモ 1:3 注1 |
これは、使徒がローマにおける最初の入獄から釈放された後のことであるはずです(参照,IIテモテ4:6のノート2)。おそらく彼は、この書簡を、マケドニヤ(今日のギリシャ北部とブルガリア南部)で書いたのでしょう。 |
1テモ 1:3 注2 |
第1章6節(1:6)とガラテヤ人への手紙第1章7節(ガラテヤ1:7)、第2章12節(ガラテヤ2:12)に述べられた人たちのような、異議を唱える者たち。 |
1テモ 1:3 注3 |
異なる事を教えるとは、作り話、果てしのない系図(4節)、律法 (7―8節)を教えることです。そのような教えはすべて、空論(6節)であり、キリストと召会、すなわち、神のエコノミーを中心とした使徒の教えとは異なるものでした。 パウロの書簡は、神の永遠の目的とエコノミーに関する神聖な啓示の完成です(コロサイ1:25)。彼の務めは、すべてを含むキリストと彼の宇宙的からだ、ご自身を表現する彼の豊満としての召会に関する啓示を完成します。キリストのからだとしての召会については、命と実行の両面があります。ローマ人への手紙からテサロニケ人への第二の手紙には、その性質、責任、機能を含む召会の命に関する完全な啓示が与えられています。ここテモテへの第一の手紙からピレモンへの手紙には、召会の実行に関する詳細な啓示が提示されています。これは、地方召会の行政と牧することと関係があります。このために、まず必要とされるのは、異議を唱える者の異なる教えを終わらせることです。異議を唱える者たちは、聖徒たちを神の新約エコノミーの中心路線と究極的なゴールからそらします(4―6節)。第1章3節から4節(1:3―4)、6節から7節(1:6―7)、第6章3節から5節(6:3―5)、20節から21節(6:20―21)の異なる教えと、第4章1節から3節(4:1―3)の異端は、テモテへの第二の手紙で扱われている召会の衰退、堕落、悪化の種であり、根源です。 |
1テモ 1:4 注1 |
同じ言葉が、第4章7節(4:7)とテモテへの第二の手紙第4章4節(IIテモテ4:4)で使われています。それは、うわさ話、言い伝え、真実あるいは虚偽の物語、架空の作り話などの、言葉、話、会話を示しています。作り話はユダヤ人の奇跡に関する物語、ラビたちの作り話などを含んでいるのでしょう。それらは俗悪で老婆じみた作り話(4:7)、ユダヤ人の作り話(テトス1:14)です。 |
1テモ 1:4 注2 |
おそらく、物語が添えられた旧約聖書の系図(テトス3:9)を言うのでしょう。 |
1テモ 1:4 注4 |
神のエコノミー(経綸)は、信仰の中にある事柄、すなわち、信仰の領域と要素の中で始められ、発展する事柄です。神のエコノミーは、神の選びの民へご自身を分与することです。これは、天然の領域の中にはなく、律法の働きの中にもありません。これは、キリストにある信仰による再生を通しての新創造(ガラテヤ3:23―26)という、霊的な領域にあります。信仰によって、わたしたちは神から生まれて神の子たちとされ、神の命と性質にあずかって神を表現します。信仰によって、わたしたちはキリストへ入れられ、彼のからだの肢体となり、彼であるすべてにあずかって、彼を表現します。これが、神の新約エコノミーにしたがった、信仰の中で遂行される神のご計画(経綸)です。 |
1テモ 1:4 注3 |
ギリシャ語は、「家庭の規則」を意味し、分配の意味を含みます(この言葉の一部の語源は、ヨハネによる福音書第10章9節の「牧場」の語源と同じです。この「牧場」という言葉は、群れに牧草を与えることを暗示します)、(ヨハネ10:9)。この言葉は、家庭の管理、家庭の行政、家庭の統治、そこから派生して、行政(分配)のための経綸、計画、エコノミーを意味します。ですから、それはまた、家庭のエコノミーでもあります。信仰の中にある神のエコノミーは、神の家庭のエコノミー、神の家庭の行政です(参照,エペソ1:10のノート1と3:9)。それは、キリストにあって、選びの民の中へとご自身を分与し、家を得てご自身を表現するためです。その家は召会(3:15)、キリストのからだです。使徒の務めは、この神のエコノミーを中心としていました(コロサイ1:25.Iコリント9:17)。ところが、異議を唱える者たちの異なる教えは、神の敵に利用されて、神の民をこのエコノミーからそらしました。地方召会の行政と牧することで、この神聖なエコノミーは、聖徒たちに完全に明らかにされなければなりません。 本書の第1章で、使徒パウロは神のエコノミーを提示して、異なる教えに対抗しました。神のエコノミーは信仰の中にありますが(4節)、異なる教えは律法の原則に基づいており、律法を中心としています(7―10節)。ですから信仰は、ガラテヤ人への手紙第3章(ガラテヤ3:2,5,23―25節)で取り扱われているように、律法に相対するのです。 律法の原則に基づいており、律法を中心とする教えは何であれ、不健康です(10節)。しかし、信仰の中にある神のエコノミーは、律法の原則に基づき、律法を中心とした教えと対照的です。神のエコノミーだけが健康的です。神のエコノミーだけが、人々がキリストを信じて永遠の命へと至り(16節)、神の永遠のご計画、信仰の中にある神のエコノミーにあずかることを可能にします。これは栄光の福音であって、祝福に満ちた神は、それを使徒パウロに託されました(11節)。そのような信仰と良い良心を投げ捨てる者は、その信仰について深い海で破船した者となります(19節)。 |
1テモ 1:5 注1 |
3節(3節)の命令を指します。 |
1テモ 1:5 注3 |
純粋な心とは、主だけを求め、主を唯一の目標としている混ざり気のない単一な心です。正しい良心とは、とがめのない良心です(使徒24:16)。4節(4節)の信仰と関連している偽りのない信仰とは、見せかけや偽善のない信仰であり、それは心をきよめ(使徒15:9)、また愛を通して働きます(ガラテヤ5:6)。召会の衰退していく傾向の中で、また異なる教えを取り扱う時に、わたしたちが純粋で、真実な、本物の愛を持つためには、これらすべての特質を必要とします。 |
1テモ 1:5 注2 |
3節(3節)の異議を唱える者たちの異なる教えは、信者たちの間にしっとと不一致を引き起こしました。これらは、使徒の命令の目標である愛とは反対の事柄です。使徒の命令を遂行するためには、純粋な心と、正しい良心と、偽りのない信仰の、三つのものから出て来る愛が必要です。 |