出典 |
フットノート |
1テモ 4:6 注5 |
わたしたちは、人を教えようとする言葉に、まず一心に従わなければなりません。 |
1テモ 4:6 注4 |
良い教えの言葉とは、信者たちを養い、啓発し、強めるために、キリストの豊富を内容とし、伝達する甘い言葉です。 |
1テモ 4:6 注2 |
あるいは、自分自身を養って。養われることは命の成長のためであって、命の事柄です。それは、単に教えられるという知識の事柄とは異なります。キリストを人に供給するには、まずわたしたち自身が、キリストに関する命の言葉で養われる必要があります。 |
1テモ 4:6 注1 |
キリストの奉仕者とは、キリストをもって人々に仕え、キリストを救い主、命、命の供給、あらゆる積極的なものとして供給する人です。彼は、律法や他の事柄を教える教師とは異なります(1:7,3)。 |
1テモ 4:7 注1 |
世的なものに触れること、また触れられることで、聖くあることの反対です。 |
1テモ 4:7 注2 |
第1章4節(1:4)のノート1を参照。 |
1テモ 4:7 注3 |
あるいは、拒否する、避ける。 |
1テモ 4:7 注4 |
体操の訓練のように。「敬虔へと至る」は、敬虔を目的としていることを意味します。敬虔とは、キリストがわたしたちから生かし出されて、神の現れとなることです(参照,3:16のノート2と3)。今日このキリストが、その霊としてわたしたちの霊の中に住んでおられます(IIコリント3:17.ローマ8:9―10.IIテモテ4:22)。ですから、自分自身を訓練して敬虔へと至るとは、わたしたちの霊を活用して、日常生活の中でキリストを生きることです。 |
1テモ 4:8 注1 |
「すべての事柄」と対照的で、幾つかの事柄、人の小さな部分を示します。 |
1テモ 4:8 注2 |
わたしたちの一部分の事柄だけではなく、すべての部分の事柄、すなわち肉体的、精神的、霊的な事、つかの間の事と永遠の事です。 |