出典 |
フットノート |
マタイ 18:20 注1 |
これらの二人または三人は、16節(16節)の二人または三人です。彼らは主の御名の中へ集められていますが、召会ではありません。なぜなら、17節(17節)は、もし問題があるなら、彼らはそれを召会に告げる必要がある、と言っているからです。 |
マタイ 18:20 注2 |
信者たちの集会は、主によって始められます。主は彼らを占有しているすべての人、事、物から召し出し、ご自身の臨在の豊かさを享受するよう、彼らを御名の中へ集められます。 そのような二人または三人の少数の集まりは、召会が地方的に集まる方法の一つであることを暗示しています。そのような少数の人たちの集まりは、使徒行伝第2章46節(使徒2:46)と第5章42節(使徒5:42)に述べられているように、信者の家庭で持たれていたに違いありません。その集まりは、祈り(19節.使徒12:5,12)、交わり、パンさき、教え、福音の宣べ伝えのためでした(使徒2:42.5:42)。多くのこのような集会は、同じ地方で分かれて持たれていたでしょう。しかし、彼らはその地方で唯一の召会です(17節)。そうでないと、彼らは分かれて集会をしているのでなく、分裂であり、分派となります(ガラテヤ5:20)。 |
マタイ 18:23 注2 |
これは、キリストの裁きの座での裁きのことを言っています(IIコリント5:10)。 |
マタイ 18:23 注1 |
文字どおりには、一人の人、王。 |
マタイ 18:24 注1 |
このような莫大な負債は、その負債者が債権者に支払うのが不可能であったことを示します。これは、救われた後に神の御前で蓄積された、わたしたちの罪の重い負債のことを言っています。 |
マタイ 18:27 注1 |
これは救われた後、わたしたちの負債が赦され、主の奴隷となることを言っています。 |
マタイ 18:28 注1 |
一万タラントの一万分の一よりも少ない。これは、わたしたちが救われて、主の奴隷となった後、兄弟がわたしたちに犯す罪のことを言っています。 |
マタイ 18:31 注1 |
もしわたしたちが、自分に対して罪を犯した兄弟を赦さないなら、それは他の兄弟たちを悲しませ、彼らはこの問題を主に持って行くでしょう。 |
マタイ 18:34 注1 |
これは主の再臨の時、彼がその兄弟たちを取り扱われることを言っています。もしわたしたちが、自分に対して罪を犯した兄弟たちを赦さないなら、彼を心から赦すまで、すなわち、負債をすべて返すまで、主によって訓練されるでしょう。そして、主はわたしたちを赦されるでしょう。これが王国での赦しです。これは、もしわたしたちが今日、心から兄弟を赦さないなら、来たるべき時代に、王国に入ることが許されないことを示します。第12章32節(12:32)のノート2を参照。 |
マタイ 19:3 注1 |
宗教家たちは主に行かせないで、再三やって来て、彼を試みました。しかし彼らの試みはいつも、ご自身と神のエコノミーを啓示する機会を主に与えました。 |