出典 |
フットノート |
テトス 3:12 注1 |
マケドニヤの南西部にある都市。そこで、この書簡は書かれました。IIテモテ第4章6節(IIテモテ4:6)のノート2を参照。 |
テトス 3:13 注2 |
マタイ第22章35節(マタイ22:35)のノート1を参照。 |
テトス 3:13 注1 |
アルテマスとテキコは、パウロの親密な同労者でした。ゼナスとアポロは、彼とは別に働いていました。しかしパウロは、やはりゼナスとアポロを顧みるようにとテトスに命じました。このことは、同労者たちの二つのグループの間にねたみがなかったことを示しています。 |
テトス 3:15 注1 |
主観的な信仰。わたしたちの信じる行為を言っており、わたしたちを主との有機的結合へともたらし(ヨハネ3:15.ガラテヤ3:26)、また愛を通して働く信仰です(ガラテヤ5:6)。この信仰の成分と働きの中で、主の関心事において主と一つであった聖徒たちは、苦難を受けている忠信な使徒を愛しました。 信仰と愛は、二つの切り離せない、キリストにある信者たちの卓越した美徳です。信仰は、神によってわたしたちに与えられました(IIペテロ1:1のノート5)。この信仰によって、わたしたちはキリストを受けます(ヨハネ1:12)。すなわち、三一の神の化身であるキリストを受けます(コロサイ2:9)。こうして、わたしたちは三一の神の中へと入って、彼と一つに結合され、彼をわたしたちの命、命の供給、すべてとします。愛は、そのようなすばらしい信仰から生じます。この愛によって、わたしたちはキリストの中へと信じた者たちと共に、キリストにある三一の神のすべての豊富を生かし出すことができます。こうして三一の神、すなわち御父、御子、その霊は、栄光の表現を持つことができます。信仰は、三一の神の無限の豊富を高く評価し、実体化し、受け入れるためです。愛は、三一の神の計り知れない豊富を経験し、享受し、生かし出すためです。信仰は、信者たちと、彼らのすべてである三一の神とを結合させます。愛によって、信者たちが互いに三一の神を供給し、伝達し合います。こうして、そのような力ある、すばらしい信仰の中で、すべての信者は、神聖で、超越した愛をもって互いに愛し合い、キリストにある団体の生活をします。このようにして、キリストのからだは実現し、手順を経た三一の神は、すべてを含むキリストの中で、計り知れない命を与える霊を通して、今日、地上で表現されます。 テトスへの手紙は、三冊の書、テモテへの第一の手紙、第二の手紙、テトスへの手紙の結びです。それは、すばらしい信仰と超越した愛で結んでいます。これは、このすばらしい信仰とこの超越した愛が、召会の衰退する潮流の中で、堅くしっかりと立つために不可欠であること、召会の衰退していく傾向とその要因に打ち勝つために不可欠であることを示します。わたしたちは、目に見えるものにしたがって歩いたり、周りの状況を気にしたりすべきではありません。むしろ、このすばらしい信仰の中で、その源、すなわち三一の神を享受すべきです。わたしたちはこの信仰を通して、三一の神に結合されました。そして、三一の神のこの超越した愛によって、彼と彼に属するすべての人を愛すべきです。こうしてはじめて、召会が衰退していく潮流の中で、わたしたちは、啓示録第2章と第3章で主によって召され、求められている勝利者になることができるのです。 このすばらしい信仰と超越した愛は、三一の神から出たものであり、彼はわたしたちと結合されて、わたしたちのすべてとなることを切に願っておられます。この三一の神は、受肉、十字架、死からの復活の手順を経て、高き天へと昇られ、命を与える霊として究極的に完成されました(Iコリント15:45)。この命の霊は(ローマ8:2)、神性、人性、キリストの十字架、復活、昇天を含んでおり、すべてを含むキリストの実際であって(ヨハネ14:16―20)、わたしたちの再生された霊の中に住んでおられます(ローマ8:16.IIテモテ4:22)。わたしたちが祈り、彼を見つめて、かつては死んでいたが生かされたわたしたちの霊によって、この三一の神に触れる時、彼はご自身を各方面からわたしたちの中へと注入されます。こうして神は、彼に対しては、わたしたちの内側で信仰となり、神に属する人たちに対しては、わたしたちの外側で愛となられます。そのような信仰と愛は、わたしたちが信じ、礼拝し、受け入れる三一の神、すなわち御父、御子、その霊の実際と表現です(Iヨハネ4:8,16)。信仰と愛はまた、キリストの中で三一の神によってわたしたちに与えられた豊富な恵みであり(Iテモテ1:14)、わたしたちの霊的生活の原動力とその表現となるだけでなく、わたしたちの命にかかわる重要な部分を覆い、保護する胸当てともなります(Iテサロニケ5:8)。わたしたちは、ヨハネによる福音書全体を通して啓示され、供給されている神聖な命を、この信仰によって受け入れ、享受します(ヨハネ3:16,36)。そしてこの愛によって、主と彼に属する人たちを愛します(ヨハネ21:15―17.13:34―35)。そのような信仰と愛は、つながっており、いつも一緒です。愛は信仰から生じ、信仰は愛を通して活動し、働きます(ガラテヤ5:6)。信仰を伴う愛によって、わたしたちは主を不朽不滅の中で愛することができ、勝利の召会生活を持ちます(エペソ6:23―24)。それは、神の新約エコノミーが、召会のためのキリストにおいて成就されるためです。ですから、わたしたちはこの信仰の中で神を喜ばせるのであり(ヘブル11:6)、この愛の中で主に祝福されるのです(Iコリント16:22)。父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちに、この信仰を伴う愛がありますように(エペソ6:23)。 |
ピレ 1:2 注1 |
この書簡の家庭的な性質を考えると、アピヤはピレモンの妻、アルキポは彼の息子であるに違いありません。 |
ピレ 1:2 注1 |
この書簡の家庭的な性質を考えると、アピヤはピレモンの妻、アルキポは彼の息子であるに違いありません。 |
ピレ 1:2 注2 |
ピレモンはコロサイに住んでいました(2節,参照,コロサイ4:17.10節,参照,コロサイ1:2.4:9)。歴史によれば、彼はそこの召会の長老でした。コロサイに在る召会は、彼の家で集会をしていたはずです。ですから、それは彼の家にある召会でした。 |
ピレ 1:5 注1 |
信者の命の初期の段階では、信仰がまず来ます。そして信仰から愛が生み出されます(参照,ガラテヤ5:6.エペソ1:15.コロサイ1:4.Iテモテ1:14のノート2.エペソ6:23のノート2)。しかし、ここでは愛が最初に述べられ、次に信仰が述べられています。なぜなら、本書で取り扱われている信者たちの同等な身分は、信仰から生じる愛と関係があるものだからです。新しい人の中では、肢体は信仰の中で互いに愛し合います(テトス3:15)。彼らの関係は、信仰を通しての愛の関係です。使徒は、ピレモンの信仰の交わりを高く評価しており(6節)、また彼の愛によって励まされています(7節)。ですから、彼はこの愛のゆえに、オネシモを受け入れるよう彼に懇願したのです(9節)。これら二つの美徳は、一組として述べられています。ピレモンは主に対してだけでなく、すべての聖徒に対しても、愛と信仰の両方を持っていました。 |
ピレ 1:6 注3 |
幾つかの古代の写本では、わたしたちとなっています。 |
ピレ 1:6 注4 |
文字どおりには、へと、に向かって。わたしたちの中にあるすべての霊的で神聖な良い事は、キリストへと至り、キリストへ向かい、キリストのためです。使徒は、すべての聖徒に対するピレモンの信仰の交わり、交流、分け与えが、わたしたちの中にある、キリストのためのすべての良い事の全き知識、全き認識の要素と領域において、彼らの中で効き目を現して、信者たちの中にある、キリストのためのあらゆる霊的で神聖な良い事柄を、彼らが認め、賞賛し、承認するようにと祈りました。 |