出典 |
フットノート |
ヘブル 4:1 注2 |
あるいは、そのために彼が遅れてしまうことがないように。 |
ヘブル 4:1 注3 |
11節(11節)のノート1を参照。 |
ヘブル 4:2 注1 |
シナイ写本でだけ、このようになっています。その他の古い写本はみな、次のようになっています。彼ら(言葉を聞いた者たち)は、聞いた者たち(カレブとヨシュア)と信仰によって混ぜ合わされなかった。 |
ヘブル 4:6 注1 |
あるいは、強情、反逆、頑固、不信仰。 |
ヘブル 4:8 注1 |
「ヨシュア」は「エホバ救い主」、あるいは「エホバの救い」という意味ですが(民13:16)、ヘブル語の名前であって、ギリシャ語は「イエス」です。ですからヨシュアは、神の民を安息にもたらした主イエスの予表です。 |
ヘブル 4:8 注2 |
この「別の日」は、「今日」です(3:7、13、15.4:7)。これは、わたしたちのために残されている約束された安息日の安息です(9節)。 |
ヘブル 4:9 注1 |
この安息日の安息は、わたしたちの安息としてのキリストであり、カナンの良き地で予表されています(申12:9.ヘブル4:8)。キリストは三つの段階で、聖徒たちの安息です。(1) 召会時代に、彼は天のキリスト、ご自身の働きから安息して、天で神の右に座しておられる方として、今わたしたちの霊の中で、わたしたちの安息です(マタイ11:28―29)。(2) 千年王国において、サタンがこの地から除去された後(啓20:1―3)、王国を伴うキリストは、勝利を得た聖徒たちのより完全な安息です。彼らは彼の共同の王となって(啓20:4、6)、彼の安息にあずかり享受します。(3) 新しい天と新しい地において、最後の敵である死を含めたすべての敵がキリストに征服された後(Iコリント15:24―27)、キリストは、すべてを征服する方として、神に贖われたすべての者の永遠にわたる最も完全な安息となられます。しかし、ここで述べられている安息日の安息は、カナンの良き地の安息で予表されていて、キリストがわたしたちの安息であることの初めの二つの段階だけで、第三段階を含んでいません。初めの二つの段階の安息は、努め励んで彼を追い求める者たちへの賞であって、彼らは贖われているだけでなく、彼を完全に享受し、こうして勝利者となります。ところが第三段階の安息は、賞だけでなく、すべての贖われた者に割り当てられた完全な分け前でもあります。ですから、ここで述べられている安息日の安息は、初めの二つの段階、特に第二段階で、わたしたちの安息としてのキリストを指しているのです。その安息は、わたしたちが努め励んで追い求め、その中に入るようにと残されています。キリストが全地を彼の嗣業として所有し(詩2:8.ヘブル2:5―6)、それを千年間、彼の王国とされるのは(啓11:15)、彼がわたしたちの安息であることの第二段階においてです。最初の段階で、彼を安息として追い求め、享受する彼の勝利を得た追従者たちはみな、千年期において、彼の統治にあずかるでしょう(啓20:4、6.IIテモテ2:12)。さらに、彼らは地を相続し(マタイ5:5.詩37:11)、ある者は十の町を支配する権威、ある者は五つの町を支配する権威を持ち(ルカ19:17、19)、彼らの主人の喜びにあずかります(マタイ25:21、23)。それは王国の安息であり、カナンの良き地に入る安息で予表されています。良き地の安息は、贖われ、エジプトから救い出されたすべてのイスラエルの子たちの目標でした。同じように、来たるべき王国の安息は、贖われ、この世から救われた新約の信者たちの目標です。わたしたちは今や、みなこの目標に向かう途上にあります。 イスラエルの子たちにもくろまれた神の完全な救いには、過越の小羊を通しての贖い、エジプトからの脱出、天のマナで養われること、裂かれた岩から生ける水によって渇きがいやされること、カナンの良き地にあずかることを含みます。すべてのイスラエルの子たちは、過越の小羊、天のマナ、生ける水にあずかりましたが、エジプトから脱出した者たちのうちで、ヨシュアとカレブだけが良き地に入り、それにあずかりました。残りの者はみな、荒野で倒れました(民14:30.Iコリント10:1―11)。すべての者は贖われましたが、わずか二人の勝利者、ヨシュアとカレブだけが、良き地の賞を受けたのです。 過越の小羊、天のマナ、生ける水、カナンの良き地はすべて、キリストのさまざまな面の予表です。イスラエルの子たちの経験によって記述されていることによれば、キリストを通して贖われたすべての信者が、召会時代と来たるべき王国の時代で、賞としての彼らの安息、満足としてのキリストにあずかるわけではありません。贖われた後、努め励んでキリストを追い求める者たちだけが、そのような方法で彼にあずかるでしょう。こういうわけで、使徒パウロは、完全に贖われてはいましたが、なおも目標に向かって追い求めていました。それは、彼が賞としてのキリストを獲得するためでした(ピリピ3:10―14)。パウロはピリピ人への手紙第3章で、自分はユダヤ教にいたが、キリストのゆえにそれを放棄したと言いました(ピリピ3:4―9)。本書のここで、著者は同じ観念を持って、ヘブル人信者たちに、ユダヤ教を捨て、キリストに向かって前進するようにと励ましています。それは、彼らが賞を失うことがないためです。 |
ヘブル 4:11 注3 |
6節(6節)のノート1を参照。 |
ヘブル 4:11 注2 |
文字どおりには、の中で。 |
ヘブル 4:11 注1 |
御言葉のこの区分で取り扱われている安息は、すべてを含むキリストですから、それから落ちるとは、キリストから落ちること、キリストから離されて無にもたらされることです(ガラテヤ5:4)。ガラテヤ人への手紙で、ガラテヤの信者たちの危険は、彼らが恵みの自由から律法の束縛へと漂い去ってしまうことでした(ガラテヤ5:1―4)。パウロは、恵みの自由に堅く立つように、すなわち、キリストから離され、無にもたらされることのないようにと彼らに勧告しました。ですから本書で、ヘブル人信者たちの危険は、彼らが律法による古い宗教を放棄して、安息としてのキリストの享受へ前進しようとしなかったことにありました。もし彼らが続けて古い宗教、すなわちユダヤ教に居続けるのでしたら、彼らの安息であるキリストに欠けるでしょう。本書の著者は、彼らがキリストのパートナーとして、キリストと共に前進し、安息に入るようにと、熱心に彼らを励ましました。それは、彼らがキリストにあずかる者として、キリストを彼らの安息として享受するためでした。 |