出典 |
フットノート |
ヘブル 4:12 注1 |
ギリシャ語では、神の恒常的な言葉を意味します。ここでは、それは旧約から引用された第3章7節から第4章11節(3:7、4:11)の言葉を言っています(この節の初めの「なぜなら」という言葉で示されているように)。その言葉は生きていて活動しており、もろ刃の剣よりも鋭いです。 |
ヘブル 4:12 注2 |
聖書によれば、人には三部分―霊と魂と体があります(Iテサロニケ5:23)。この節には、体の一部分である関節と骨髄、そして魂と霊があります。 これまでの節は、イスラエルの子たちが、良き地の安息に入ることから落ちてしまったことを記述しています。彼らには三つの場所がありました。(1) 彼らが救い出されたエジプト。(2) 彼らがさ迷った荒野。(3) 彼らが入って行ったカナン。この三つの場所における彼らの歴史は、彼らが三つの段階で神の完全な救いにあずかったことを象徴します。これはわたしたち、新約の信者が、神の全き救いにあずかる予表です。第一段階で、わたしたちはキリストを受け入れ、贖われ、この世から救い出されました。第二段階で、わたしたちは主に従うことでさ迷う者となります。わたしたちのさ迷いは、いつも魂の中で起こります。第三段階で、わたしたちは完全にキリストにあずかり、彼を享受します。これは、わたしたちの霊の中での経験です。わたしたちが物質の楽しみや罪の事柄を求める時、エジプトで象徴されるこの世にいます。自分の魂の中をさ迷う時には、荒野にいます。わたしたちの霊の中でキリストを享受する時、カナンにいます。イスラエル人が荒野をさ迷っていた時、いつもつぶやいたり、論争したり、不平を言ったりしていました。これは確かに、彼らの霊の中でではなく、彼らの魂の中で起こりました。しかし、カレブとヨシュアは神の言葉を信じ、主に従い、目標に向かって前進しました。これは確かに、彼らの魂の中でではなく、彼らの霊の中で起こりました。その当時、本書の受取人であるヘブル人信者たちは、古いヘブルの宗教をどうすべきか、さ迷っていました。この思いの中でのさ迷いは、魂の中でのさ迷いであって、霊の中でのキリストの経験ではありませんでした。ですから本書の著者は、神の言葉、すなわち旧約から引用された言葉が、鋭いもろ刃の剣のように彼らのさ迷いを突き通し、彼らの魂と霊を分ける、と言ったのです。骨髄が関節の中に深く隠されているように、霊は魂の深みにあります。骨髄と関節を分けることは、おもに関節を砕くことを要します。同じ原則で、霊と魂を分けるには、魂を砕く必要があります。ヘブル人信者たちの魂と、そのさ迷う思い、神の救いの道についての疑い、自分の利益を考えることは、生きていて活動している、切り離す神の言葉によって、砕かれなければなりませんでした。それは、彼らの霊と魂を分けるためです。 わたしたちの魂は、わたしたちの自己です(マタイ16:25.比較、ルカ9:25)。主に従う時、わたしたちは自分の魂、自己を否まなければなりません(マタイ16:24.ルカ9:23)。わたしたちの霊は最も深い部分であり、神に触れる霊的な器官です(ヨハネ4:24.ローマ1:9)。再生されるのは、わたしたちの霊の中でです(ヨハネ3:6)。聖霊が住み、働かれるのは、わたしたちの霊の中でです(ローマ8:16)。わたしたちがキリストと彼の恵みを享受するのは、わたしたちの霊の中でです(IIテモテ4:22.ガラテヤ6:18)。ですから本書の著者は、魂にとどまってさ迷ってはならない、魂は否まなければならないものであると、ヘブル人信者たちに勧告したのです。彼らは霊の中へと前進して、天のキリストにあずかり、彼を享受すべきでした。それは、彼らが千年期で、彼が王となられた時に王国の安息にあずかるためです。もし彼らが魂のさ迷いに漂い去るのでしたら、神の目標を見失い、キリストの完全な享受と王国の安息を得損なうでしょう。 |
ヘブル 4:12 注3 |
わたしたちの霊は、わたしたちが神に触れる器官です(ヨハネ4:24)。わたしたちの心は、神を愛する器官です(マルコ12:30)。わたしたちの霊は、神に触れ、神を受け入れ、神を内容とし、神を経験する器官です。しかし、これには、まず神を愛する心が必要です。魂には三つの部分―思い、意志、感情があります。霊にも三つの部分―良心、交わり、直覚があります。心は魂と霊と別のものではなく、魂のすべての部分と、霊の一部である良心から成っています。ですから、わたしたちの心には思いと思考、意志と意図があるのです。思考は意図に影響を及ぼし、意図は思考を遂行します。神の生ける言葉は、思いの中の思考と、意志の中の意図を識別することができます。著者によって前の節で神の言葉から引用されたものは、ヘブル人信者たちが彼らの救いの過程で漂い去っていた時に、彼らの思考と意図が何であり、どこにあるかを暴露することができました。 |
ヘブル 4:14 注3 |
わたしたちの大祭司は、支配たちや権威たちをはぎ取り(コロサイ2:15)、ハデスから復活し(使徒2:24、27)、天を通って行って、今や神の右に座しておられます。 |
ヘブル 4:14 注1 |
すなわち、卓越した、すばらしい、栄光なる、最も誉れある。キリストは彼のパースン(1:5、8.2:6)、働き(1:3.2:17、9、14―15、10.3:5―6.4:8―9.使徒2:24、27)、達成(6:20.9:24.2:9)において偉大です。 |
ヘブル 4:14 注2 |
主イエスはまず受肉を通して(2:14)、神からわたしたちに遣わされました。それは、彼がわたしたちの使徒(3:1)、創始者、導き手(2:10)、モーセにまさる方(3:3)、彼のパートナーであるわたしたち(1:9.3:14)を栄光と安息にもたらす(2:10.4:11)わたしたちの実際のヨシュア(4:8)となるためです。次に彼は復活と昇天を通して(5:5―6)、わたしたちから神に戻っていかれました。それは、彼がわたしたちを神の臨在の中で担い、わたしたちのすべての必要を顧みる大祭司となられるためです(2:17―18.4:15)。 |
ヘブル 4:14 注4 |
信仰のことを言っています。 |
ヘブル 4:16 注2 |
神のあわれみと神の恵みはいずれも、彼の愛の表現です。わたしたちがあわれむべき状態にある時、神のあわれみがまずわたしたちに届き、わたしたちを、神が彼の恵みを施すことのできる状態にもたらしてくださいます。ルカによる福音書第15章20節から24節(ルカ15:20―24)は、父は放蕩息子が戻ってくるのを見た時、彼をあわれんだと告げています。それはあわれみであって、父の愛を表現しています。次に父は彼に最上の衣を着せ、肥えた子牛を食べさせました。これは恵みであって、それも父の愛を現します。神のあわれみはさらに遠くまで届いて、わたしたちと神の恵みとの間の隔たりに、橋渡しをします。 神のあわれみと恵みは常に、わたしたちのものとなることができます。しかしながら、わたしたちは霊を活用し、恵みの御座に来て、わたしたちのすべての弱さに同情することのできる大祭司に触れて、それらを受け、獲得する必要があります。この言葉によって、本書の著者は、疲れ果てたヘブル人信者たちを、あわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを得るようにと励ましています。それは、彼らが真っすぐに立つためです(12:12)。 |
ヘブル 4:16 注1 |
疑いもなく、ここで述べられている御座は、天にある神の御座です(啓4:2)。神の御座は全宇宙に対する権威の御座です(ダニエル7:9.啓5:1)。しかし、わたしたち信者にとって、それは恵みの御座となり、それは至聖所の中にある(出25:17、21)なだめの場所(あわれみの座)で象徴されています。この御座は、神と小羊の御座です(啓22:1)。わたしたちは今、まだ地上に生きているのに、どのようにして天にある神と小羊、キリストの御座に近づくことができるのでしょうか? その秘訣は、12節(12節)で言われているわたしたちの霊です。天の御座に座しておられるキリスト(ローマ8:34)は、わたしたちの中に(ローマ8:10)、すなわち、神の住まいである(エペソ2:22)わたしたちの霊の中(IIテモテ4:22)にもおられます。神の家、神の住まいであるベテル、すなわち天の門で、キリストは地を天に結び、天を地にもたらすはしごです(創28:12―17.ヨハネ1:51)。 わたしたちの霊が今日、神の住まいであるからには、今それは天の門であり、その所でキリストは、わたしたち地上の民を天に結び付け、天をわたしたちにもたらすはしごです。ですから、わたしたちが霊に戻る時はいつでも、天の門の中へ入り、天のはしごとしてのキリストを通して、天における恵みの御座に触れるのです。 |
ヘブル 5:1 注1 |
供え物は神の喜びのためであり、いけにえはわたしたちの罪のためです。 |