出典 |
フットノート |
ヘブル 6:5 注1 |
ギリシャ語は、神の即時的な言葉を意味します。ここの神の良い言葉は、1節(1節)で述べられたキリストの初歩的な言葉を言います。それは、ヘブル人信者たちが主を信じた時に味わった乳でした。今や彼らは、さらに深い言葉、義の言葉に前進しなければなりませんでした(5:13)。その言葉は、おもに神の贖いについてではなく、彼のエコノミーの道についてであり、彼らを完成、円熟に到達させることができる(1節)固い食物です。 |
ヘブル 6:5 注2 |
原文は、複数。ここの「力」は、神聖な力を言い、「来たるべき時代」は、来たるべき王国の時代を言います。来たるべき時代の神聖な力は、古くなってしまったものを復興し、新しくし、生き返らせます(マタイ19:28)。信者たちはみな再生された時(テトス3:5)、この神聖な力を味わって、復興され、新しくされ、生き返らせられました。 |
ヘブル 6:6 注1 |
「それてしまう」とは、ヘブルのクリスチャンたちが、彼らの古い、伝統的な、ユダヤの宗教に戻って、純粋なクリスチャン信仰からそれてしまったことを言います。原則的に、これは、神の道の正しい路線からそれたクリスチャンにも適用することができます。 |
ヘブル 6:6 注2 |
「十字架につけ」と「さらし者とする」は、述語の「もう一度新たに悔い改める」を修飾します。もう一度新たに悔い改めるとは、すでに成した悔い改めを繰り返すことです。これは必要ありません。このことを行なうのは、神の御子を再び十字架につけて、彼をさらし者とすることです。 |
ヘブル 6:6 注2 |
「十字架につけ」と「さらし者とする」は、述語の「もう一度新たに悔い改める」を修飾します。もう一度新たに悔い改めるとは、すでに成した悔い改めを繰り返すことです。これは必要ありません。このことを行なうのは、神の御子を再び十字架につけて、彼をさらし者とすることです。 |
ヘブル 6:6 注3 |
一度照らされ、天の賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、神の良い言葉と、来たるべき時代の力を味わった者たちは、信じた時に、すでに基礎を据えました。もし彼らがそれて、元に戻ってしまっても、再びその基礎を据える必要はありません(1節)。ただ前進して、完成、円熟にもたらされる必要があるだけです。彼らは悔い改めを繰り返す必要はありません。なぜなら、彼らがもう一度新たに悔い改めることは、不可能であるからです。1節(1節)は、それが必要でないことを示します。6節(6節)は、それは不可能であると言います。7節から8節(7―8節)は、それが正しくないことを見せています。 |
ヘブル 6:7 注1 |
ここの雨は、4節(4節)と5節(5節)で述べられた五つの部類の良い事柄を言っています。 |
ヘブル 6:7 注2 |
文字どおりには、飲んで。 |
ヘブル 6:7 注3 |
「野菜を生えさせる」とは、完成、円熟にもたらされる(1節)ことの例証です。地としての信者たちは、神のために耕され、野菜としてのキリストを生み出して、完成、円熟にもたらされます。キリストを生み出すことによって、彼らは神からの祝福にあずかります。 |
ヘブル 6:8 注1 |
ここのいばらやあざみは、厳密に言って、ヘブル人信者の古い宗教の伝統的事柄のことを言います。 |