出典 |
フットノート |
ヘブル 6:19 注1 |
「錨」は、わたしたちが嵐の海上にあって、望みの錨がなければ難破するかもしれない(Iテモテ1:19)ことを象徴します。 |
ヘブル 6:19 注2 |
主イエスが入られた天は、今日、幕の内側の至聖所です。安全で堅固な錨としてのわたしたちの望みは、そこに入っており、今やわたしたちは霊の中で、そこに入ることができます(10:19―20)。 |
ヘブル 6:20 注1 |
先駆者としての主イエスは、先駆けて嵐の海を通って天の港に入り、メルキゼデクの位による大祭司となられました。そのような先駆者として、彼はわたしたちの救いの創始者です(2:10)。 彼は先駆者として、栄光への道を切り開かれました。そして創始者として、栄光の中に入られました。 |
ヘブル 7:1 注1 |
キリストの働きと務めによれば、この書はこの節で一つの方向転換、地から天へ向きを変えます。第6章の終わりまでで、おもに啓示されていることは、アロンの祭司職で予表されている地上でのキリストの働きです。その区分は基礎の言葉です。この節から、メルキゼデクの位による天におけるキリストの務めが啓示されています。この区分は完成の言葉であり、どのように天のキリストが天の幕屋で務めをしておられるかを見せています。彼の罪のきよめはアロンの働きで予表されていますが、彼が高き所の威光ある方の右に座られたことは(1:3)、メルキゼデクの位によります(詩110:1、4)。アロンの働きが予表している彼の地上における十字架上の働きは、罪の赦しをわたしたちに得させます。天の御座での彼の務めは、罪に対する勝利をわたしたちに供給します。彼の十字架は、わたしたちをエジプトから解放しました。彼の御座は、わたしたちをカナンへもたらします。ヘブル人信者たちは、主の十字架上の働きにあずかりました。今、彼らは突き進んで、御座における彼の務めを享受することに入っていかなければなりません。 |
ヘブル 7:1 注2 |
「メルキゼデク」は「義の王」を意味し、「サレムの王」は「平安の王」を意味します(2節)。義の王として(イザヤ32:1)、キリストは万物と神との間を、また万物と互いの間を正しくされました。義は平安をもたらします(イザヤ32:17)。キリストは平安の王として(イザヤ9:6)、義を通して、神とわたしたちとの間に平和をもたらされます。彼はその中で、彼の祭司職の務めを成就されます。彼は祭司となる王です。ですから、彼の祭司職は王的なものです(Iペテロ2:9)。 |
ヘブル 7:2 注1 |
この章の初めでは義の王があり、終わりには神の御子があります(28節)。このことは、わたしたちの大祭司であるキリストが、王的であり神聖であることを示しています。彼の王職は義と平安に満ちた状態を維持し、手順を経た三一の神をわたしたちの享受として供給します。神の御子としての彼の神性は、彼を生きていて命に満ちた大祭司に構成します。それは、彼が永続する祭司職を続けることができるためです。 |
ヘブル 7:3 注1 |
創世記におけるすべての重要な人物には、系図があります。しかし、メルキゼデクにはありません。神聖な文書の中で、聖霊は主権をもって、彼の生涯の初めや彼の命の終わりについて何も与えていません。それは、彼が永遠なる方としての正当なキリストの予表となり、永遠にわたしたちの大祭司となるためです。これは、ヨハネによる福音書が提示しているのと同じです。神の御子は永遠であって、系図はありません(ヨハネ1:1)。しかし、人の子としてのキリストには系図があります(マタイ1:1―17.ルカ3:23―38)。 |
ヘブル 7:4 注1 |
アブラハムが戦利品の十分の一を与えたことは、キリストの予表であるメルキゼデクの偉大さを証しします。メルキゼデクの位による祭司としてのキリストは、レビ族の祭司たちよりも偉大です。彼らも父祖アブラハムを通して、メルキゼデクに十分の一を納めました(9節)。なぜなら、アブラハムがメルキゼデクに会った時、彼らはアブラハムの腰の中にいたからです(10節)。 |
ヘブル 7:6 注1 |
メルキゼデクがアブラハムを祝福したという事実も、彼がアブラハムより偉大であることを証しします(7節)。 |
ヘブル 7:7 注1 |
あるいは、劣っている者。 |