出典 |
フットノート |
ヘブル 9:9 注2 |
第5章1節(5:1)のノート1を参照。 |
ヘブル 9:10 注1 |
文字どおりには、第6章2節(6:2)でのようにバプテスマ(参照、ノート1)。 |
ヘブル 9:10 注2 |
あるいは、改良、秩序を正すこと、真っすぐにすること。改革の時は、キリストが最初に来られた時に起こりました。彼は来て、旧約のすべての影を成就し、新契約を旧契約に置き換えられました。これは、正しい秩序をもたらすこと、改めて正しく順序立てることです。ですから、それは改革です。これは、キリストの再来の時に起こる使徒行伝第3章21節(使徒3:21)の復興とは違います。 |
ヘブル 9:11 注1 |
古代の写本の幾つかは、来たるべき良い事柄となっています。 |
ヘブル 9:12 注2 |
旧契約では、やぎや子牛の血は、民の罪のなだめとなっただけで(レビ16:15―18)、決して罪の贖いを達成しませんでした。なぜなら、雄牛とやぎの血は、罪を取り除くことができないからです(10:4)。ヘブル語では、なだめという言葉の語根は覆うを意味します。ですから、なだめの意味は罪を覆うことであって、罪を取り除くことではありません。神の小羊としてのキリストが、十字架上でいけにえとして、罪のために一度限りご自身をささげることによって(14節.10:12)世の罪を取り除かれたので(ヨハネ1:29)、彼が天の幕屋で注いだ血は(12:24)、わたしたちのために永遠の贖いを達成しました。それは、以前は動物の血によって覆われたにすぎない、初めの(古い)契約の下での違犯の贖い(15節)も含んでいました。こうして、わたしたちはキリストの尊い血で贖われました(Iペテロ1:18―19)。 |
ヘブル 9:12 注1 |
キリストは十字架上で贖いを達成されました(コロサイ1:20)が、彼が贖いの血を通して天の至聖所へ入った時、すなわち、その贖いの血を神の御前へささげた時はじめて、永遠に効力のある贖いを獲得されました。 |
ヘブル 9:13 注1 |
文字どおりには、俗なものとされた者たち。 |
ヘブル 9:14 注2 |
十字架上で、キリストは人の体をもって、ご自身をささげられました(10:5、10)。その体は、時間の制限を受けるものでした。しかし彼は、永遠の霊を通してご自身をささげられました。この霊は、永遠から存在し、時間の制限を受けません。ですから、神の小羊としてのキリストは、神の目には、世の基が置かれた時からほふられていました(啓13:8)。彼がご自身をささげられたことは一度限り(7:27)で、彼の死を通して完成された贖いは永遠であり(12節)、永遠の効力を持っています。彼の贖いの範囲は、罪の範囲を完全に含みます。26節(26節)のノート1の二段落目を参照。 |
ヘブル 9:14 注1 |
キリストの血は、罪の赦しのために流されました(マタイ26:28)。新契約は、それをもって完成されました(10:29.ルカ22:20)。それは、わたしたちのために永遠の贖いを達成し(12節.エペソ1:7.Iペテロ1:18―19)、神のために召会を買い取りました(使徒20:28)。それは罪からわたしたちを洗い(Iヨハネ1:7)、わたしたちの良心をきよめて(14節)、わたしたちを聖別し(13:12)、わたしたちのためにさらにまさって語ります(12:24)。この血によって、わたしたちは至聖所に入り(10:19)、そして訴える者、サタンに打ち勝つのです(啓12:10―11)。ですから、それは尊く、やぎや雄牛の血にまさっています(12―13節)。わたしたちはそれを高く評価すべきであって、動物の血のような俗なものと考えるべきではありません。もしそうすれば、わたしたちは神によって刑罰を受けるでしょう(10:29―31)。 |
ヘブル 9:14 注3 |
キリストの血は、わたしたちの良心をきよめます。それは、わたしたちが生ける神に仕えるためです。生ける神に仕えるには、血できよめられた良心が必要です。死んだ宗教の中での礼拝や、神以外の死んだものに仕えることには、きよめられた良心は必要ありません。良心はわたしたちの霊の主要な部分です。わたしたちが仕えることを願う生ける神は、わたしたちの良心に触れることによって、わたしたちの霊に来られます(ヨハネ4:24)。神は義であり、聖であり、生きておられます。わたしたちの汚れた良心は、わたしたちが生き生きと彼に仕えるために、きよめられる必要があります。わたしたちの思いの中で宗教的に神を礼拝するのには、これを必要としません。 |