出典 |
フットノート |
ヘブル 10:12 注2 |
文字どおりには、絶えず持続して。14節(14節)も同じです。 |
ヘブル 10:12 注3 |
11節(11節)のノート1を参照。 |
ヘブル 10:14 注1 |
あるいは、成就された。キリストは、彼の一つのいけにえを通して、すでにわたしたちを完成し、成就しておられます。 |
ヘブル 10:17 注1 |
原文は、複数。 |
ヘブル 10:18 注1 |
原文は、単数。 |
ヘブル 10:19 注1 |
今日、至聖所は天にあり、そこに主イエスがおられます(9:12、24)。そうだとすると、わたしたちがまだ地上にいる間、どうしてそこに入ることができるのでしょうか? その秘密は、第4章12節(4:12)で言われているわたしたちの霊にあります。天にいるキリストは、今やわたしたちの霊の中にもおられます(IIテモテ4:22)。 彼は天のはしごとして(創28:12.ヨハネ1:51)、わたしたちの霊を天に結び付け、天をわたしたちの霊の中へもたらされます。ですから、わたしたちが霊に戻る時はいつでも、至聖所の中へ入るのです。そこで、わたしたちは恵みの御座におられる神に出会います。第4章16節(4:16)のノート1を参照。 |
ヘブル 10:20 注2 |
これは、幕屋の中の第二の幕(9:3)であり、それはキリストの肉体を予表します。キリストの肉体が十字架につけられた時、この幕は裂かれました(マタイ27:51)。こうして、命の木で象徴される(創3:22―24)神から遠く離れていたわたしたちのために道が開かれ、わたしたちは至聖所の中へ入って彼と接触し、彼を命の木として取り、享受します。これは、わたしたちの古い人がキリストと共に十字架につけられたので、わたしたちの霊の中で命また命の供給としての神に触れ、享受するために、開かれた道があることを示します。 |
ヘブル 10:20 注1 |
文字どおりには、開かれたばかりの。 |
ヘブル 10:22 注2 |
ここの体と清い水は、いずれも比喩的に使われています。これは、エペソ人への手紙第5章26節から27節(エペソ5:26―27)でしみ、しわ、水などが比喩的に使われているのと同じです。体はわたしたちが見える外側の面を表します。それは、心がわたしたちの見えない内側の面を表すのと同じです。清い水は、わたしたちの外側の行ないと歩みを清める主の生ける言葉を指しています(参照、ヨハネ15:3)。 |
ヘブル 10:22 注1 |
(至聖所に)「進み出」ることは、38節から39節(38―39節)にある(ユダヤ教に)「退く」ことと対比しています。 |