出典 |
フットノート |
ヘブル 10:30 注1 |
ギリシャ語のこの文には報復の意味はなく、すべての当事者に対する完全な制裁を意味します。 |
ヘブル 10:33 注1 |
公に展示されて、人に見せ物とされることを意味します。同じことが、使徒たちにも起こりました(Iコリント4:9)。 |
ヘブル 10:34 注1 |
このさらにまさった、いつまでも残る財産は、永遠の嗣業(9:15)、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない嗣業(Iペテロ1:4)です。ユダヤ人は旧契約の下で、地的な事柄を財産として受け継ぎました。しかし信者たちは新契約の下で、天の豊富を財産として受け継ぎます。このさらにまさった、いつまでも残る財産は、ヘブル人信者たちに、地的事柄の損失を被ることに対する大きな励ましでした。 |
ヘブル 10:35 注1 |
褒賞は、永遠の救いに加えて与えられるものです。永遠の救いは信仰を通して得られるものであって、わたしたちの働きとは何の関係もありません(エペソ2:8―9)。ところが褒賞は、わたしたちの救われた後の働きに対して与えられるものです(Iコリント3:8、14)。わたしたちは救われたとしても、褒賞を受けないで、むしろ損失を被るかもしれません。なぜならわたしたちは、主が賞賛される働きに欠けるからです(Iコリント3:15)。その褒賞は、わたしたちの働きにしたがって、主が戻ってこられる時わたしたちに与えられます(マタイ16:27.啓22:12.Iコリント4:5)。わたしたちに与えられるものは、キリストの裁きの座で決定され(IIコリント5:10)、来たるべき王国の中で享受されるでしょう(マタイ25:21、23)。使徒パウロは、その褒賞を得るように努めました(Iコリント9:24―27.ピリピ3:13―14.IIテモテ4:7―8)。モーセでさえ、その褒賞をひたすら望みました(11:26とノート3を参照)。ここでヘブル人信者たちは、その褒賞、すなわち、来たるべき安息日の安息(4:9)、キリストを享受すること、来たるべき王国でキリストと共に支配することの褒賞を失うことがないようにと励まされています。 |
ヘブル 10:36 注1 |
ここでのヘブル人信者たちに対する神のみこころは、新契約の道を取って(19―23節)、召会と共にとどまり(25節)、ユダヤ教に退かないで(38―39節)、その迫害を受けることです(32―34節)。このみこころを行なうことによって、主が戻ってこられる時に(37節)、彼らは大いなる褒賞の約束(35節)を受けるでしょう。 |
ヘブル 10:36 注2 |
ここの約束は、第4章9節(4:9)で述べられている安息日の安息の約束であり、その中でわたしたちは、来たるべき王国でキリストと共に支配するでしょう。それは、39節(39節)で述べられている魂を獲得することのための、35節(35節)で述べられている大いなる褒賞となるでしょう。この約束の条件は、わたしたちの忍耐と、神のみこころを行なうことです。これは、第9章15節(9:15)での約束とは違います。そこのノート2を参照。 |
ヘブル 10:38 注1 |
この節と次の節に続いて、第11章は信仰の完全な定義を与えます。 |
ヘブル 10:39 注1 |
ヘブル人信者たちがユダヤ教に退くことは、退いて崩壊に至ることです。それは永遠の滅びではなく、生ける神による刑罰です(29―31節)。次のノートを参照。 |
ヘブル 10:39 注2 |
ここで述べられている崩壊は、27節から31節(27―31節)で述べられている刑罰であり、神の御子を踏みにじり、キリストの尊い血を動物の血のような俗なものと考え、恵みの霊を侮るような、新契約を放棄してユダヤ教に戻る者たちに対してです。 |
ヘブル 10:39 注3 |
あるいは、救う、守る、所有する。わたしたちは三つの部分、霊、魂、体から成り(Iテサロニケ5:23)、魂と霊は異なっています。わたしたちが主イエスを信じて救われた時、わたしたちの霊は、神の霊で再生されました(ヨハネ3:6)。しかし、わたしたちの体が贖われ、救われ、変貌するためには(ローマ8:23―25.ピリピ3:21)、主が戻ってこられるまで待たなければなりません。わたしたちの魂を救う、あるいは獲得することは、わたしたちが救われて再生された後、主に従う中で、どれほど魂を対処したかにかかっています。もし主のために今、魂を失うなら、それを救うでしょう(マタイ16:25.ルカ9:24.17:33.ヨハネ12:25.Iペテロ1:9)。そしてそれは、主の再来の時に救われ、獲得されるでしょう(37節)。これは勝利を得た、主に従う者たちへの王国の褒賞(35節)となるでしょう(マタイ16:22―28)。 |