出典 |
フットノート |
ヘブル 11:25 注1 |
あるいは、短い間の、つかの間の、過ぎ去る。 |
ヘブル 11:25 注2 |
エジプトでの享楽、すなわちこの世の享楽は、神の目には罪深いことです。それは罪の、罪深い生活の享楽であり、はかなく、つかの間の、過ぎ去るものです。 |
ヘブル 11:26 注2 |
キリストは主の御使いとして、患難にあったイスラエルの子供たちと常に共におられました(出3:2、7―9.14:19.民20:16.イザヤ63:9)。さらに、聖書はキリストと彼らを同一視しています(ホセア11:1.マタイ2:15)。ですから、彼らに及んだそしりは、キリストのそしりと見なされました。また神をそしる者たちのそしりは、キリストの上にも及びました(ローマ15:3)。新約の信者たちは彼に従う者として、彼のそしりを担い(13:13)、彼の御名のためにそしられます(Iペテロ4:14)。モーセは神の民と共に虐待されることを選び(25節)、このようなそしり、神のキリストのそしりを、パロの宮殿にあるエジプトの財宝にまさる富と考えました。それは、彼が褒賞をひたすら望んでいたからです。 |
ヘブル 11:26 注1 |
あるいは、勘定した、思った。 |
ヘブル 11:26 注3 |
モーセはキリストのそしりを喜んで受けようとしたがゆえに、王国という褒賞を受けるでしょう。彼はメリバでの失敗のゆえに(民20:12―13.申4:21―22.32:50―52)、良き地の安息に入ることを許されませんでした。しかし、彼は王国の中でキリストと共にいます(マタイ16:28―17:3)。これに言及することによって、著者は、キリストのために迫害を受けていた本書の読者に、モーセに従って、キリストのそしりを、彼らが失ったものにまさる富と考え、かの褒賞をひたすら望むようにと励ましたのでしょう。第10章35節(10:35)のノート1を参照。 |
ヘブル 11:27 注1 |
あるいは、堅く動かなかった。 |
ヘブル 11:30 注1 |
ここでは、イスラエルの子供たちが荒野でさ迷った四十年間については何も述べられていません。なぜなら、彼らはその年月の間、信仰によって神を喜ばせることを何も行なわず、むしろ彼らの不信仰によって神を怒らせたからです(3:16―18)。彼らがヨルダン川を渡ったことでさえ、ここでは述べられていません。なぜなら、彼らの不信仰によって渡るのが遅れたからです。もし彼らがシナイ山を離れてしばらくの後(申1:2)、カデシ・バルネアで彼らを良き地に入らせなかった不信仰がなかったなら(申1:19―46)、ヨルダンを渡る必要はなかったのです。 |
ヘブル 11:35 注2 |
さらにまさった復活は、第一の復活(啓20:4―6)、命の復活(ヨハネ5:28―29)だけでなく、格別な復活(ピリピ3:11)、特別な復活、主の勝利者たちが王国の褒賞(26節)を受ける復活でもあります。これは、使徒パウロが追い求めたものです。 |
ヘブル 11:35 注1 |
あるいは、解放される。ギリシャ語は「贖い」(代価を伴う)を意味します。 |
ヘブル 11:38 注1 |
これらの信仰の人は特別な人、最高の次元にいる人であり、堕落したこの世は彼らにふさわしくありません。神の聖なる都、新エルサレムだけが、彼らにふさわしいです。 |