出典 |
フットノート |
ヘブル 11:40 注2 |
ギリシャ語は、「優越した」、「さらに高貴な」、「さらに偉大な」を意味します。それゆえ、さらにまさった。それはヘブル人への手紙で十三回使われています。さらにまさったキリスト(1:4)、さらに良い事柄(6:9)、さらにまさった望み(7:19)、さらにまさった契約(二回―7:22.8:6)、さらにまさった約束(8:6)、まさったいけにえ(9:23)、さらにまさった財産(10:34)、さらにまさったふるさと(11:16)、さらにまさった復活(11:35)、さらにまさったもの(11:40)、さらにまさった語りかけ(12:24)です。(もう一つは第7章7節にあり、そこでは「大きな」と訳されています)。すべてこれらのさらにまさった事柄は、旧約の聖徒たちが予表、象徴、影において持っていた事柄の成就、実際です。神がその当時与えられたものは、新約のわたしたちに関する事柄の絵でした。わたしたちに関する事柄とは、新契約における事柄、真の、また実際の事柄であり、彼らの予表、象徴、影よりもさらにまさり、強く、強力で、高貴で、偉大です。旧約の聖徒たちは、影しか持っておらず、彼らの完成のためにわたしたちを必要とします。それは、彼らがわたしたちと共に新契約の実際の事柄にあずかるためです。ですから、どうしてわたしたちは新契約の実際の事柄を離れて、旧契約の影に戻らなければならないのでしょうか? |
ヘブル 11:40 注1 |
あるいは、予見した。 |
ヘブル 11:40 注3 |
千年間の王国にあずかることと(啓20:4、6)、永遠にわたって新エルサレムにあずかることは(啓21:2―3.22:1―5)、いずれも団体的な事柄です。王国の宴席は、旧約と新約の両方の勝利者のためです(マタイ8:11)。祝福された新エルサレムは、旧約の聖徒たちと新約の信者たちから構成されます(啓21:12―14)。ですから、新約の信者たちを抜きにして、旧約の人たちは、神が約束されたものを獲得することはできません。神の約束を獲得し、享受するために、彼らは、新約の信者たちが彼らを完成することを必要とします。今や彼らは、わたしたちが前進するのを待っています。それは、彼らが完成されるためです。 |
ヘブル 12:1 注2 |
ギリシャ語の「証し人」は、殉教者の意味を含んでいます。 |
ヘブル 12:1 注1 |
雲は民を導き、民が主に従うためです(民9:15―22)。主は雲の中にいて、民と共におられます(出13:21―22)。 |
ヘブル 12:1 注3 |
あるいは、重いもの、重圧、障害物。レースの走者はあらゆる不必要な重いもの、障害となる重圧を脱ぎ捨てます。それは、何の妨げも受けず、そのレースに勝利を得るためです。 |
ヘブル 12:1 注4 |
ここの罪はおもに、わたしたちにまといついて、レースを妨げるものを言います。それは、第10章26節(10:26)で述べられている故意の罪が、ヘブル人信者たちを神のエコノミーの中の新契約の道からそらせてしまうのと同じです(参照、10:26のノート1)。重荷やまといつく罪は、いずれもヘブル人信者たちをざ折させ、新契約の道における天的レースを走るのを妨げ、ユダヤ教によって拒絶されたイエスに従うことを困難にします。 |
ヘブル 12:1 注5 |
クリスチャンの生涯はレースです。すべての救われたクリスチャンは、このレースを走って、賞を勝ち取らなければなりません(Iコリント9:24)。それは一般的な意味での救いではなく(エペソ2:8.Iコリント3:15)、特別な意味での褒賞です(10:35.Iコリント3:14)。使徒パウロはそのレースを走り、そして賞を獲得しました(Iコリント9:26―27.ピリピ3:13―14.IIテモテ4:7―8)。 |
ヘブル 12:2 注3 |
あるいは、創設者、開始者、先導者、開拓者、先駆者。ギリシャ語は、第2章10節(2:10)で使われているのと同じ言葉です。旧約の勝利を得た聖徒たちはみな、信仰の証し人であるにすぎません。ところがイエスは、信仰の創始者です。彼は信仰の創設者、開始者、源、起源です。わたしたちの天然の人の中に、信じる能力はありません。わたしたちは、自分だけでは信仰を持っていません。わたしたちは、主から受けた尊い信仰(IIペテロ1:1)を通して救われました。わたしたちがイエスをひたすら見つめる時、彼は命を与える霊として(Iコリント15:45)、わたしたちにご自身を、彼の中の信じる要素を伴って伝達されます。すると自然に、信じるということがわたしたちの中に起こり、彼を信じる信仰を持ちます。この信仰は、わたしたち自身のものではなく、彼ご自身を、信じる要素としてわたしたちの中へ分け与え、わたしたちに代わって信じる方のものです。ですから、彼ご自身がわたしたちの信仰です。わたしたちは、わたしたちの信仰としての彼によって生きます。すなわち、自分自身によってではなく、彼の信仰によって生きます(ガラテヤ2:20)。 信仰の創始者、源として、イエスは信仰の先導者、開拓者、先駆者でもあります。彼は信仰の道を切り開き、先駆者としてそれを開拓されました。ですから、彼はご自分の足跡に従って、わたしたちに信仰の道を歩ませてくださることができます。彼はその生涯において、また地上での歩みにおいて、信仰の創始者となられました。そして栄光において、また天の御座において、信仰の完成者となられました。わたしたちが彼をひたすら見つめる時、彼はご自身が創始し、完成した信仰をわたしたちに伝達し、注入してくださいます。 |
ヘブル 12:2 注4 |
あるいは、成就者、完結者。イエスは信仰を成就する方、完結する方でもあります。彼はご自身が開始したものを成就し、ご自身が創始したものを完結されます。わたしたちが絶えず彼を見つめるなら、天のレースを走るのに必要とする信仰を、彼は成就し、完結してくださいます。 |