出典 |
フットノート |
ヘブル 12:10 注1 |
聖は神の性質です。神の聖にあずかるとは、彼の聖なる性質にあずかることです。ヘブル人信者たちがユダヤ教にとどまることは世俗的であり、聖に反することです。彼らは神の聖なる性質にあずかるために、神の新契約へと聖別される必要がありました。このために、彼らが世俗的なものから聖別されるようにと、迫害が起こって彼らを取り扱ったのです。 |
ヘブル 12:11 注1 |
平安は義の実です(イザヤ32:17)。聖は内側の性質であり、義は外側の行為です。神の取り扱いは、信者たちが神の聖にあずかることだけでなく、神と人に対して正しくあるよう彼らを助けます。このような義の状況の下で、彼らは平安を甘い実、平安に満ちた義の実として享受することができます。 |
ヘブル 12:12 注1 |
文字どおりには、真っすぐに立たせなさい。 |
ヘブル 12:13 注1 |
クリスチャン生活は、人が思いによって考える理論的な教理の事柄ではなく、人が足で歩く実行的なものでなければなりません。聖書のあらゆる健全で健康な教理は、わたしたちが歩くことのできる道でなければなりません。特にヘブル人への手紙においてはそうです。本書はまず、キリストと彼の新契約について、最も高く、最も健康な教理をわたしたちに供給します。次に、わたしたちに示された正しい教理に基づいて、レースを走り、自分の足のために道を真っすぐにするようにと命じます。本書の第一区分(1:1―10:18)は教理を取り扱っており、第二区分(10:19―13:25)はレースと道を取り扱っています。 |
ヘブル 12:13 注2 |
あるいは、脱臼する、くじく。別の意味は、「迷う」、「それる」ですが(Iテモテ1:6.5:15.IIテモテ4:4)、初めの意味のように、続く言葉、「むしろいやされるため」の対句として符合しませんし、分脈とも一致しません。文脈は、ためらっているヘブル人信者たちが、ユダヤ教のあらゆる外側の実行を捨てる(すなわち、道を真っすぐにする)べきであること、それは彼ら、からだの足なえである肢体(手足)が、背信へと落ち込む(すなわち、関節をはずされる)ことがなく、新契約の道へ完全にもたらされる(すなわち、いやされる)ためであることを意味します。 |
ヘブル 12:14 注1 |
聖は、神にとっては彼の聖なる性質です。わたしたちにとってはわたしたちの聖別、わたしたちが神へと分離されることです(参照、ローマ1:2のノート3)。これは、わたしたちがすべての人との平和を追い求め、また神の御前でわたしたちの聖別に注意を払わなければならないことを示しています。わたしたちがすべての人との平和を追い求めることは、神の御前でのわたしたちの聖別、わたしたちが神へと分離されることによって、均衡が取れていなければなりません。その聖別がなければ、だれも主を見ることも、彼との交わりを持つこともありません。 |
ヘブル 12:15 注1 |
神の恵みは、キリストを通してわたしたちに来ました(ヨハネ1:14、17)。ですから、それはまたキリストの恵みでもあります(IIコリント13:14.12:9)。わたしたちの経験によれば、この恵みはまさにキリストご自身です(参照、ガラテヤ6:18.IIテモテ4:22)。わたしたちは恵みから落ちる時、無にもたらされ、キリストから離されます(ガラテヤ5:4)。この事で、ガラテヤの諸召会は、ヘブル人信者たちと同じ危険にありました。パウロはガラテヤの諸召会に、ユダヤ宗教の律法にそらされて、キリストから離されることのないように、キリストご自身である神の恵みから落ちていかないようにと警告しました。わたしたちは恵みから落ちるべきではなく、むしろ恵みを持ち(28節)、恵みによって強固にされ(13:9)、恵みに立つ(ローマ5:2)べきです。ガラテヤ人への手紙とヘブル人への手紙はいずれも、恵みの祝福で締めくくっています(ガラテヤ6:18.ヘブル13:25)。 |
ヘブル 12:15 注2 |
文脈に暗示されている意味によると、苦い根は、ユダヤ教宣教者であるに違いありません。彼らはヘブル人信者たちを、神の恵みからユダヤ教の儀式にそらし、こうして神の聖を無視し、自らを神の目に汚れたものにしようとしました。 |
ヘブル 12:16 注1 |
エサウはイサクの長子であり、彼の長子の権は、地の二倍の分け前、祭司職、王職でした。エサウは俗悪になって自分の長子の権を放棄したので、地の二倍の分け前はヨセフに与えられ(歴代上5:1―2)、祭司職はレビに渡され(申33:8―10)、王職はユダに割り当てられました(創49:10.歴代上5:2)。 わたしたちクリスチャンは、神から生まれ、彼がご自身の創造の中で収穫される被造物の初穂(ヤコブ1:18)です。この意味で、わたしたちは神の長子です。ですから、長子であるわたしたちから構成される召会は、長子の召会(23節)と呼ばれます。神の長子として、わたしたちは長子の権を持っています。これは地の嗣業(2:5―6)、祭司職(啓20:6)、王職(啓20:4)を含みます。それらは来たるべき王国におけるおもな祝福です。俗悪な、世を愛し求めるクリスチャンたちは、主が戻ってこられる時、それらを失います。結果的に、この長子の権は千年王国で、勝利を得たクリスチャンたちに与えられる褒賞となるでしょう。いかなる世的な享受も、それが一食だけであったとしても、わたしたちのものであるこの長子の権を失わせることができます。そのような厳粛な警告の後、もし、ヘブル人信者たちが、なおも彼らの古い宗教の「一食」にふけることを好むなら、キリストの完全な享受を失い、王国の安息とそのあらゆる祝福を失ったでしょう。 自分の長子の権を失ったのは、エサウ(創25:29―34)だけではありません。ルベンも、長子の権の祝福を失った人でした(創49:3―4.歴代上5:1)。エサウは、食べることでの欲望のゆえにそれを失いました。ルベンは、彼の情欲の汚れのゆえにそれを失いました。これらの事例はいずれも、わたしたちにとって警告となるべきです。この節の「淫行の者がだれもないように」という言葉は、ルベンの背景のゆえに書かれたのでしょう。 キリストの中でわたしたちに与えられている享受は、来たるべき王国における祝福の前味わいです。この前味わいを正常に享受していれば、わたしたちは王国の祝福の全き味わいへもたらされます。もしわたしたちが今日、第4章9節(4:9)のノート1で定義されている良き地としてのキリストを享受していなければ、どうして王国の中で彼の安息に入り、彼と共に地を受け継ぐことができるでしょうか? もしわたしたちが今日、自分たちの祭司職を活用して彼と接触していないなら、祈りをもって彼に仕えないなら、どうして王国の中で祭司の義務を全うすることができるでしょうか? もしわたしたちが霊を活用し、神から与えられた権威をもって、自己、肉、自分の全存在、敵とそのあらゆる暗やみの力を支配しないなら、どうしてキリストと共同の王となって、彼と共に彼の王国で諸国民を支配する(啓2:26―27)ことができるでしょうか? 今日わたしたちがキリストを享受し、祭司職と王職を実行することは、明日キリストの王国にあずかることの準備、資格づけです! |
ヘブル 12:17 注1 |
「悔い改めの余地を見いだ」さなかったとは、エサウに悔い改める立場が与えられていなかったことを意味するのではありません。それは、悔い改めることによって自分が行なったことの結果を取り消す立場、道がなかったことを意味します。 |