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出典

フットノート

ヘブル 12:18 注1 18節から19節(18―19節)で述べられている事柄は、地的で物質的であって、律法の側を象徴します。そこでは、モーセも含めてすべての人が、恐れおののいていました(19―21節)。
ヘブル 12:22 注1 22節から24節(22―24節)で述べられている事柄は、天的で霊的であり、18節から19節(18―19節)に挙げられた地的で物質的な事柄と対照を成しています。これらは恵みの側を象徴しており、ここでは長子たちも義人の霊も、恵みによって救われています。旧契約の下にある民は、律法の側に来ました。わたしたち、新契約の下にあるクリスチャンは、恵みの側に来ます。ですから、わたしたちは律法の下にではなく、恵みの下にいます(ローマ6:14)。御言葉のこの部分(18―24節)は、ガラテヤ人への手紙第4章21節から31節(ガラテヤ4:21―31)のように、わたしたちが律法の束縛の下にではなく、恵みの自由の下にあって、嗣業の相続人となることを見せています。これはわたしたちの長子の権です! わたしたちは恵みから落ちて(15節)、長子の権を放棄すべきではなく、恵みを持つ(28節)べきです。恵みの側の事柄は天的ですが、まだすべてのものが天にあるのではありません。召会の長子である者たちの数多くは、なお地上にいます。ところが、義人(旧約の聖徒たち)の霊は、パラダイスにいます。そこは、アブラハムがいる所であり(ルカ16:22―2325―26)、主イエスと救われた強盗が十字架で死んだ後に行った所です(ルカ23:43)。
 律法の側で挙げられている六つの項目のどれも、喜ばしいものはありません。まず、火で燃えている山があります。だれがそのような場所に近づくでしょうか? 次に暗やみ、暗黒、嵐の旋風があります。最後に、恐ろしいラッパの響きと厳かに警告する言葉の声があります。これらすべては恐ろしい光景です。しかしながら、恵みの側では、すべてのものが喜ばしい光景です。ここでの八つの項目は、四つの組となっています。高く上げられたシオンの山と美しい天のエルサレムは第一の組であり、神の住まいと彼の宇宙的行政の中心を示します。何という愛すべき場所でしょうか! 祝賀し、歓声を上げている御使いたちは、彼らが仕えている救いの相続人(1:14)と非常に密接な関係を持っており、召会の祝福された長子たちと共に、その光景における第二の組を形成します。御使いたちの集会の何と喜ばしい展示でしょう! 彼らは、救いの相続人が長子たちの召会となって、新契約の祝福にあずかっていることを祝っています。万物の裁き主である神と、義人たちの霊、旧約の聖徒たちは(復活していない彼らの体は、ここに挙げるに値しない)第三の組であり、義なる神は、昔から主の御前で正しかった聖徒たちを、彼らの信仰のゆえに義とされたことを見せています。さらにまさった契約、すなわち新契約の仲保者である親愛なる主イエスと、さらにまさって語る彼の尊い注がれた血が、最後の組を構成します。これは、さらにまさった契約が、イエスのさらにまさった血をもって設立されたこと、イエスが死んで、この新契約を新約として彼の信者たちに遺贈されたこと、彼が今やこの新約の仲保者、執行者となって、その中に含まれているすべての祝福された事実を完全に実現されることを、示しています。何という喜ばしい光景でしょう! 律法の側の光景と、何という対比でしょう! 律法の側では、神も、救い主も、御使いたちさえも、述べられていないのです! 言うまでもなく、一人の救われた人も、そこには見られません。恵みの光景には、わたしたちを義とする神、新契約の仲保者である救い主、彼の語る血、仕える御使いたちと、救われた者たちの会衆(召会)、義とされた聖徒たちの霊があります。律法の側では、その光景は恐ろしいラッパの響きと、警告する言葉で終わっています。恵みの側では、その光景はあわれみ深い仲保者と、弁護する語りかけで終わっています。そのような対比を見たなら、だれが愚かにも恵みの側を離れて、律法の側に戻るでしょうか? 恵みの側の八つの項目はすべて、天的で霊的であるだけでなく、永遠でもあります。ですから、天が揺り動かされる時でさえ(26節)、永遠であるこれら八つの項目は、なおも残るでしょう(27節)。
ヘブル 12:22 注2 第11章10節(11:10)のノート1を参照。
ヘブル 12:22 注3 あるいは、祝典の集会。ギリシャ語の意味は、「全体的な集会」、「会衆全体」です。それは、オリンピック競技のような公の祭典を祝賀する人々の集会に使われています。新契約の時代全体は祭典であり、そして無数の御使いたち、すなわち、新契約の下で救いの相続人に仕えている霊は(1:14)、宇宙的な集会であって、「こんなに偉大な救い」(2:3)のすばらしい祭典を祝賀しているのです! この祭典は宇宙で最大の、最も興奮させる「競技」です。ルカによる福音書第15章7(ルカ15:7)、10節(ルカ15:10)と、ペテロの第一の手紙第1章12節(Iペテロ1:12)における主の言葉は、このことを示しているのでしょう。
ヘブル 12:23 注2 召会の長子たちはまだ天にはいませんが、天に登録されています。
ヘブル 12:23 注1 16節(16節)のノート1の第二段落を参照。
ヘブル 12:24 注1 ここの「新しい」のギリシャ語の言葉は、年齢において「若い」、「新鮮である」などを意味します。第8章8(8:8)、13節(8:13)、第9章15節(9:15)の「新しい」という言葉は、性質の上で「新しい」、「新鮮である」ことを意味します。
ヘブル 12:24 注3 キリストの血は、贖い、聖別し、きよめるだけでなく、語りもします。それは語る血であり、アベルの血にまさって語ります。アベルの血は、訴え、復讐するために神に語ります(創4:10―15)。ところがキリストの血は、赦し、義認、和解、贖いのために神に語ります。さらに、この尊い血は、わたしたちのために、永遠の新契約がこの血によって(本書が啓示しているように)制定されたことを神に語ります。またこの新契約において、神はご自身と彼のすべての祝福を、信仰によってこの契約を受け入れるキリストにある信者たちに与えられることを語ります。
ヘブル 12:24 注2 本書において、キリストの血は特別に顕著で重要です。これは永遠の契約の血であり(13:20)、さらにまさった新契約は、この血をもって制定されました(10:29)。この血を通して、キリストは一度限り至聖所へと入り、わたしたちのために永遠の贖いを獲得されました(9:12)。この血によって、キリストは天のすべてのものをきよめられました(9:22―24)。この血はわたしたちを聖別し(13:1210:29)、わたしたちの良心をきよめて生ける神に仕えさせ(9:14)、わたしたちのためにアベルの血にまさって語ります(24節)。この血の中で、わたしたちは大胆に至聖所へ入ります(10:19)。わたしたちはこの血を、動物の血のような俗なものとすべきではありません。もしそうするなら、神の刑罰を受けるでしょう(10:29)。
ヘブル 12:28 注1 新約聖書がわたしたちに宣べ伝えた福音は、王国の福音です(マタイ3:1―24:172310:724:14)。わたしたちは王国へと再生され(ヨハネ3:5)、王国へと移されました(コロサイ1:13)。今やわたしたちは王国にいます(啓1:9)。そして王国は今日、正常な召会生活です(ローマ14:17)。しかしながら、わたしたちが今いる所、また今日、召会にあるものは、その実際における王国であり、将来、キリストの再臨と共に来るものが、その出現における王国となります。
 実際における王国、あるいは王国の実際は、今日の召会における、わたしたちに対する訓練、学びです(マタイ5:310207:21)。出現における王国、あるいは王国の出現は、来たるべき時代の千年王国における、わたしたちに対する褒賞、享受です(マタイ16:2725:2123)。わたしたちが今日、王国の実際において、その霊の訓練と神の取り扱いを取るなら、主の褒賞を受け、来たるべき時代の王国の出現において、来たるべき安息日の安息の享受に入るでしょう(4:9)。そうでないと、わたしたちは来たるべき王国に入り損ない、主の再来の時に王国の出現の褒賞を受けることはなく、王国の栄光に入って千年王国でキリストの支配にあずかる権利もなく、長子の権を失い、それゆえに、来たるべき時代に地を受け継ぐことができず、キリストの出現の栄光の中で、王なる祭司となって神とキリストに仕えることができず、キリストと共同の王となって、彼の神聖な権威をもってすべての諸国民を支配する(啓20:46)こともできません。来たるべき王国に入り損なうこと、わたしたちの長子の権を喪失することは、わたしたちが滅びることを意味するのではありません。それは、わたしたちが褒賞を失うことであって、救いを失うことではありません(参照、10:35のノート1)。わたしたちは損失を被りますが、火をくぐってきたようにではあっても救われるでしょう(Iコリント3:14―15)。このことは、本書の五つの警告すべての根拠となっている基本的観念であり、この警告を随所で見ることができます。これらの警告のあらゆる消極的な点は、来たるべき王国における褒賞を失うことと関係があります。すべての積極的な点は、王国の褒賞と享受と関係があります。啓示録第2章、第3章にある七つの手紙はすべて同じ観念、王国の褒賞、あるいはその損失で結んでいます。この観念をもってのみ、以下の言葉が正しく理解され、正当に適用されます。マタイ5:20.7:21―23.16:24―27.19:23―30.24:46―51.25:11―13、21、23、26―30.ルカ12:42―48.19:17、19、22―27.ローマ14:10、12.Iコリント3:8、13―15.4:5.9:24―27.IIコリント5:10.IIテモテ4:7―8.ヘブル2:3.4:1、9、11.6:4―8.10:26―31、35―39.12:16―17、28―29.啓示録2:7、10―11、17、26―27.3:4―5、11―12、20.22:12。もしわたしたちにこの観念がないのでしたら、これらの節の解釈は、カルビン派(Calvinist)の極端な客観論か、あるいはアルメニアン派(Arminian)の極端な主観論に陥るでしょう。これらの派はいずれも、王国の褒賞を無視しています。もちろん、彼らは王国の褒賞を失うことも見ていません。ですから、両派はいずれも、これらの節のあらゆる消極的な点を、滅びと考えています。カルビン派は、永遠の救い(すなわち、人がひとたび救われたなら、決して滅びない)を信じているので、これらすべての消極的な点が、偽信者の滅びを指していると考えます。アルメニアン派は、救われた人がもし堕落したなら滅びると信じているので、これらの点が、救われた後、堕落してしまった信者の滅びを指していると考えます。しかし聖書の完全な啓示は、これらの消極的な点が、王国の褒賞を失うことを言っていることを見せています。神の救いは永遠です。わたしたちがひとたびそれを得たなら、決して失うことはありません(ヨハネ10:28―29)。王国の褒賞を失う可能性はありますが、それでもなお救われるでしょう(Iコリント3:814―15)。ヘブル人への手紙の警告は、永遠の救いを失うことを言っているのではなく、王国の褒賞を失うことを言っています。ヘブル人信者たちは王国を受けましたが、もし彼らが神の恵みから、神の新契約の道から後退してしまったなら、王国の出現における褒賞を失う危険性がありました。これが、ためらっていたヘブル人信者たちに警告した中での、著者の主要な関心でした。
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