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出典

フットノート

ヘブル 13:7 注1 これは、召会生活に欠かせないことです。神の言葉の奉仕者は、召会の肢体たち、神の言を受け取る者が倣うべき、信仰の模範となる生活の仕方を持つべきです。そうすれば、召会の肢体たちは、奉仕者が供給する言葉を受け入れるだけでなく、その生活の仕方に現された奉仕者の信仰に倣うでしょう。
 7節(7節)は、5節から6節(5―6節)の継続です。「生活の仕方」とは、神の言葉の奉仕者たちが追い求めた生活と振る舞い、すなわち金銭を愛することなく、自分の持っているもので満足すること(5節前半)を言っているに違いありません。「彼らの信仰」とは、彼らが生活のために助け手である主に信頼していること(5―6節)、(5節は後半から)を言っているに違いありません。彼らが供給した言葉と彼らが生きた生活はすべて、キリストであるべきであり、彼らの信仰は、キリストにある信仰であるべきです。キリストは、その信仰の創始者であり完成者です(12:2)。信者たちは、奉仕者が供給した神の言葉を受け入れ、彼らの生活の仕方の終わりを考えました。このような信者たちにとって、そのような生活の仕方とそのような信仰は確かに、倣うに値するものでした。
ヘブル 13:8 注1 キリストは、7節(7節)で神の言葉の奉仕者たちが宣べ伝え、教えた言葉であり、彼らが生きた生活であり、彼らの信仰の創始者、完成者です。彼は永遠であって、変わることがなく、不変です。彼は永遠に同じです(1:11―12)。召会の中では、別のイエス、別の福音が宣べ伝えられることがあってはなりません(IIコリント11:4ガラテヤ1:8―9)。真実で堅固な召会生活のために、わたしたちは昨日も、今日も、永遠に同じであるキリストを保持すべきであり、さまざまな異様な教えによって、迷わされてはなりません(9節)。
ヘブル 13:9 注1 さまざまな異様な教えは、いつもサタンによって利用されて、召会の中に不和や分裂を引き起こします。このことのゆえに、使徒は人々に異様な教えを教えないように命じたのです(Iテモテ1:3)。さまざまな異様な教えは、その当時、ユダヤ教宣教者たちによって教えられていたに違いありません。著者はヘブル人信者たちに、ユダヤ教宣教者たちの教えによって、新契約の下にあった召会生活から迷わされないようにと警告しました。
ヘブル 13:9 注3 ここで述べられている食物は、恵みと対比されており、旧契約の儀式祭典で使う食物です(9:10コロサイ2:16)。ユダヤ教宣教者たちはそのような食物を用いて、ヘブル人信者たちを恵みの享受から、すなわち、新契約の中でキリストにあずかることから迷わそうとしていました。
ヘブル 13:9 注2 その当時、恵みによって強固にされるとは、新契約にとどまってキリストを恵みとして享受すること(ガラテヤ5:4)、そして迷わされてユダヤ教に戻り、ユダヤ宗教の儀式の中で食物(いけにえ)を食べることにあずからないことでした。
ヘブル 13:10 注1 この祭壇は、十字架を指しているはずです。主イエスはその上で、わたしたちの罪のために、いけにえとしてご自身をささげられました(10:12)。旧約のささげ物に関する規定によれば、罪のためのいけにえ、あるいは罪のためのささげ物は、その血がなだめのために至聖所、あるいは聖所にもたらされたのですが、ささげる祭司やささげる者に、食べる物を供給しませんでした。ささげ物全体は、焼き尽くされなければなりませんでした(レビ4:2―1216:276:30)。ですから、幕屋に仕えている者たちは、罪のためのささげ物の祭壇(新約において、主の十字架が祭壇の成就です)から食べる権利はありませんでした。ユダヤ教宣教者たちは、異様な教えの中で食物を用いて、新契約の信者たちをキリストの享受から迷わそうと企てましたが、10節(10節)はこのことに対する強力な反論です。ユダヤ教宣教者たちは、彼らが宗教奉仕の中で享受した食物を重要視しました。しかし本書の著者は、罪のためのささげ物、年ごとのなだめのための基本的なささげ物(レビ第16章)には食べる物は何もなかったと論じました。罪のためのささげ物において重要なのは、食べることではなく、その効力を受けることです。今や真の罪のためのささげ物はキリストであり、彼はわたしたちの罪のためにご自身を神にささげて、わたしたちのために完全な贖い(なだめよりもまさっている―参照、9:12のノート2)を達成されました。それは、わたしたちが新契約の下で、彼にあって神の恵みの享受へもたらされるためです。わたしたちが今日、必要とするのは、旧契約の奉仕の食物を食べることではなく、キリストのささげ物の効力を受けること、そして新契約の恵みの中で、営所から、ユダヤ宗教から出て、彼に従うことです。
ヘブル 13:11 注1 罪のためのささげ物の血は、贖罪の日に至聖所へ持って行かれ、民のためになだめをし、動物の体は営所の外で焼かれました(レビ16:14―1627)。これは、真の罪のためのささげ物であるキリストの血が、真の至聖所へ持って行かれ、わたしたちのために贖いを成し遂げ、キリストの体がエルサレムの都の門の外(12節)で、わたしたちのために、いけにえとしてささげられたことを予表します。
ヘブル 13:12 注2 主はご自身の血を通して至聖所へと入られましたが(9:12)、その主の血は、新しい生ける道を開いて、わたしたちを幕の内側に入らせ、天で栄光を受けた方であるご自身を享受させます(10:19―20)。そして、わたしたちのために十字架上でささげられた彼の体は、十字架の狭い道を切り開いて、わたしたちを営所の外に行かせ、地上で苦しんだ方であるご自身に従わせます(13節)。
ヘブル 13:12 注1 本書は、神の天の召しがわたしたちを聖なる民(3:1)、神へと聖別された民とすることを見せています。キリストは聖別する方です(2:11)。彼は十字架で死んで、血を流し、彼の血をもって至聖所に入られました(9:12)。それは、彼がご自身の天的祭司職(7:26)の天的務めによって(8:26)、聖別する働きの実行を可能にするためでした。そして、それはわたしたちが彼の血によって幕の内側に入り、天の聖別する方としての彼にあずかるためでした。このように彼にあずかることによって、わたしたちは営所の外で、十字架の聖別する道によって、彼に従うことができるのです。12節(12節)のノート2と13節(13節)のノート1を参照。
ヘブル 13:12 注3 これはエルサレムの都の門です。その都は地的領域を象徴し、営所は人の組織を象徴します。この二つは一つのものを象徴します。それは二つの面、地的な面と人の面を持っているユダヤ宗教です。ユダヤ教は地的であり、人に属するものです。
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