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出典

フットノート

ヤコブ 1:18 注1 暗やみの源である罪は、死をもたらします(15節)。しかし光の御父は、わたしたちを生み出し、最初に円熟する、強健な命に満ちた、彼の被造物の初穂としてくださいます。これは神聖な誕生、わたしたちの再生(ヨハネ3:5,6)のことを言っており、それは神の永遠の目的にしたがって遂行されます。
ヤコブ 1:18 注4 神は彼の全創造物を更新して、新エルサレムを中心とする新しい天と新しい地を得られます(啓21:1―2)。彼はまず、命の言葉を植えることを通して、わたしたちの中に彼の神聖な命を分与することによって、わたしたちを再生し、彼の新創造の初穂とされました。それは、わたしたちが完成の命を生きるためです。これは、クリスチャンの実行上の完成の種であるべきです。この命は、神の永遠の新宇宙の生ける中心である新エルサレムにおいて、完成するでしょう。
ヤコブ 1:19 注1 あるいは、このことを知りなさい。
ヤコブ 1:19 注2 聞くことはわたしたちを語るように誘惑し、わたしたちの語る言葉は怒りを燃え立たせる火です(参照,3:6)。もし、わたしたちが言葉を制限するなら(参照,26節)、燃え立つ怒りは消されます。ここのヤコブの言葉は、クリスチャンの実行上の完成についての彼の観点を強調しており、旧約聖書の箴言の語調と似ています(箴10:1914:17)。
ヤコブ 1:20 注1 神の義は、人の怒りの助けを必要としません。それは、神の義を果たす上で何の役にも立ちません。
ヤコブ 1:21 注1 「植えられた」は、神の言葉を生きた植物にたとえます。神の言葉はわたしたちの中に植えられ、わたしたちの中で成長し、わたしたちの魂の救いのために実を結びます。わたしたちは少しも抵抗せず、神の言葉を柔和の中で、完全な服従の中で受け入れる必要があります。
ヤコブ 1:21 注2 この章の文脈によれば、わたしたちの魂の救いは、環境を通しての試練に対する忍耐(2―12節)と、情欲の誘惑を拒絶すること(13―21節)を意味します。わたしたちの魂の救いに関するヤコブの見方は、幾らか消極的であって、パウロのように積極的ではありませんでした。パウロは、わたしたちの魂は新しくする霊によって、栄光から栄光へと、主のかたちにまで造り変えられることができる、と言いました(ローマ12:2エペソ4:23IIコリント3:18)。Iペテロ第1章5節(Iペテロ1:5)のノート5とヘブル第10章39節(ヘブル10:39)のノート3を参照。
ヤコブ 1:25 注2 完全な律法、自由の律法は、わたしたちの外にある石の板に書かれた文字の律法ではなく、わたしたちの心に書き記された命の律法です(ヘブル8:10)。この律法の道徳水準は、山の上で主によって布告された王国の憲法の道徳水準に相当します(マタイ第5章―第7章)。文字の律法は束縛の律法でした。なぜならそれは、人に命を与えることができず(ガラテヤ3:21)、人の弱さと失敗を暴露することしかできず、人を奴隷状態に保っただけだからです(ガラテヤ5:1とノート4)。命の完全な律法は、神聖な命の機能です。この神聖な命は、再生の時にわたしたちの中に分与され、わたしたちのクリスチャン生活を通じて、神聖な命の計り知れない豊富をわたしたちに供給し、わたしたちを罪と死の法則から自由にし、文字の律法のすべての義の要求を満たすようにさせます(ローマ8:2,4)。ですからこれは、自由の律法です。この律法は、キリストの律法であり(Iコリント9:21)、キリストご自身でさえあります。このキリストは、わたしたちの内側に住んで、わたしたちの中ヘ神聖な性質を分与することによって、わたしたちを規制します。それは、わたしたちが神のかたちを表現する生活を生きるためです。ヤコブは、この律法がクリスチャンの実行上の完成のための、クリスチャン生活の基本的法則であると考えたのでしょう。
ヤコブ 1:25 注1 Iペテロ第1章12節(Iペテロ1:12)の「うかがい知る」と同じ言葉。
ヤコブ 1:26 注1 ギリシャ語では、「信仰深い」という形容詞と「信仰生活」という名詞は、礼拝儀式と神への礼拝を意味します(神への畏れという意味を含む)。形容詞はここでしか使われていません。名詞はここと27節(27節)では積極的な意味で、コロサイ人への手紙第2章18節(礼拝)では消極的な意味で、使徒行伝第26章5節(宗教)では一般的な意味で使われています。ヤコブの神の新約エコノミーに関する文書は、パウロや、ペテロや、ヨハネのものほど目立ってはいません。パウロは、キリストがわたしたちの内に生きておられ、わたしたちの内で形づくられつつあること(ガラテヤ2:204:19)、キリストがわたしたちにおいて大きく表現され、わたしたちから生かし出されること(ピリピ1:20―21)に焦点を合わせています。それは、わたしたちが彼のからだなる召会として、彼の豊満、彼の表現となるためです(エペソ1:22―23)。ペテロは、神がキリストの復活を通してわたしたちを再生された事実(Iペテロ1:3)、そしてそれがわたしたちを彼の神聖な性質にあずかる者とし、わたしたちが敬虔な生活をすること(IIペテロ1:3―7)、彼の美徳を表現する霊の家に建て上げられること(Iペテロ2:5,9)を強調します。ヨハネは、わたしたちと三一の神との交わりのためにわたしたちに与えられた永遠の命(Iヨハネ1:2―3)、また神聖な種として神聖な命の中へとわたしたちをもたらす神聖な誕生(Iヨハネ2:293:94:17)を強調します。この神聖な命によって、わたしたちは神のような生活を送り、イエスを証しする燭台としての召会(啓1:9,11―12)となり、その召会は永遠に神を表現する新エルサレムとして完成します(啓21:2―3,10―11)。新約特有の事柄に関しては、ヤコブは、神がわたしたちを生んでくださったこと(18節)、完全な自由の律法(25節)、内住の霊(4:5)、召会のあまり重要ではない面(5:14)を強調するだけで、新約の経綸の特徴であるわたしたちの命としてのキリストや、キリストの表現としての召会については語っていません。この書簡は、ヤコブが非常に信仰深かったことを見せています。彼がペテロとヨハネと共に柱と見なされ、エルサレムに在る召会で筆頭とさえ見なされたのは(ガラテヤ2:9)、彼の信仰深さと、クリスチャンの実行上の完成によるのでしょう。しかしながら、彼はキリストの中の、神の新約エコノミーの啓示においては強くありませんでした。もろもろの儀式をもって神を礼拝し、神を畏れる生活をすることがその基本的要素であった古いユダヤ教の背景の影響下に、彼は依然としていました。これは、使徒行伝第21章20節から24節(使徒21:20―24)と、この書簡の第2章2節から11節(2:2―11)の彼の言葉によって証明されます。彼の霊的視力は、ユダヤ教によって弱められていたので、パウロやペテロやヨハネのように、神の新約エコノミーの啓示の中に入り込むことはできませんでした。
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