出典 |
フットノート |
ヤコブ 1:26 注2 |
舌を制しないとは、語ることにおいて速く(参照、19節)、制限がなく、ルーズなことです。これは常に、語っている者自身の心を欺き、彼の良心、彼の心の意識を欺きます。 |
ヤコブ 1:26 注1 |
ギリシャ語では、「信仰深い」という形容詞と「信仰生活」という名詞は、礼拝儀式と神への礼拝を意味します(神への畏れという意味を含む)。形容詞はここでしか使われていません。名詞はここと27節(27節)では積極的な意味で、コロサイ人への手紙第2章18節(礼拝)では消極的な意味で、使徒行伝第26章5節(宗教)では一般的な意味で使われています。ヤコブの神の新約エコノミーに関する文書は、パウロや、ペテロや、ヨハネのものほど目立ってはいません。パウロは、キリストがわたしたちの内に生きておられ、わたしたちの内で形づくられつつあること(ガラテヤ2:20.4:19)、キリストがわたしたちにおいて大きく表現され、わたしたちから生かし出されること(ピリピ1:20―21)に焦点を合わせています。それは、わたしたちが彼のからだなる召会として、彼の豊満、彼の表現となるためです(エペソ1:22―23)。ペテロは、神がキリストの復活を通してわたしたちを再生された事実(Iペテロ1:3)、そしてそれがわたしたちを彼の神聖な性質にあずかる者とし、わたしたちが敬虔な生活をすること(IIペテロ1:3―7)、彼の美徳を表現する霊の家に建て上げられること(Iペテロ2:5,9)を強調します。ヨハネは、わたしたちと三一の神との交わりのためにわたしたちに与えられた永遠の命(Iヨハネ1:2―3)、また神聖な種として神聖な命の中へとわたしたちをもたらす神聖な誕生(Iヨハネ2:29.3:9.4:17)を強調します。この神聖な命によって、わたしたちは神のような生活を送り、イエスを証しする燭台としての召会(啓1:9,11―12)となり、その召会は永遠に神を表現する新エルサレムとして完成します(啓21:2―3,10―11)。新約特有の事柄に関しては、ヤコブは、神がわたしたちを生んでくださったこと(18節)、完全な自由の律法(25節)、内住の霊(4:5)、召会のあまり重要ではない面(5:14)を強調するだけで、新約の経綸の特徴であるわたしたちの命としてのキリストや、キリストの表現としての召会については語っていません。この書簡は、ヤコブが非常に信仰深かったことを見せています。彼がペテロとヨハネと共に柱と見なされ、エルサレムに在る召会で筆頭とさえ見なされたのは(ガラテヤ2:9)、彼の信仰深さと、クリスチャンの実行上の完成によるのでしょう。しかしながら、彼はキリストの中の、神の新約エコノミーの啓示においては強くありませんでした。もろもろの儀式をもって神を礼拝し、神を畏れる生活をすることがその基本的要素であった古いユダヤ教の背景の影響下に、彼は依然としていました。これは、使徒行伝第21章20節から24節(使徒21:20―24)と、この書簡の第2章2節から11節(2:2―11)の彼の言葉によって証明されます。彼の霊的視力は、ユダヤ教によって弱められていたので、パウロやペテロやヨハネのように、神の新約エコノミーの啓示の中に入り込むことはできませんでした。 |
ヤコブ 1:27 注1 |
ヤコブのこの言葉は、クリスチャンの実行上の完成について彼が持っていた観点を強調するものですが、旧約の命令の要素が含まれています(申14:29.24:19―21,12―13)。 |
ヤコブ 1:27 注3 |
第4章4節(4:4)のノート3を参照。 |
ヤコブ 1:27 注2 |
この世的にならないこと、この世的なものによって汚されないこと。これも、クリスチャンの実行上の完成について、神を畏れるヤコブが持っていた観点の一部です。みなしごややもめを訪問することは、神の愛の心にしたがった行ないであり、積極面における完成の特徴です。世の汚れから自分を守ることは、神の聖なる性質にしたがって世から分離されることであり、消極面における完成の特徴です。 |
ヤコブ 2:1 注2 |
ほとんどの翻訳者は、わたしたちの主イエス・キリスト、栄光の主、と訳しています。 |
ヤコブ 2:1 注1 |
あるいは、主イエス・キリストにある信仰。ローマ第3章22節(ローマ3:22)のノート1を参照。これは、この書簡、特にこの章が、栄光の主イエス・キリストにある新約の信者たちに対して書かれたことを示します。 |
ヤコブ 2:2 注1 |
ギリシャ語は、「共に」と「持っていく」から成っています。ですから、集合、集まり、会衆、集会であり、集まる場所の意味を伝えます。それは新約では、ユダヤ人の会衆(使徒13:43.9:2.ルカ12:11)とユダヤ人の集まる場所(ルカ7:5)を示すのに用いられました。彼らはそこで聖書を学び(ルカ4:16―17.使徒13:14―15)、神の知識を追求しました。エルサレムにはユダヤ人のさまざまなグループがあって、それぞれのためにかなりの数の会堂がありました(使徒6:9)。ヤコブがここでこの言葉を使ったのは、ユダヤ人信者たちが彼らの集会と集会所を、ユダヤ人の間の会堂の一つと考えていたことを示しているかもしれません。もしそうだとしたら、この書簡全体がそうであるように、この部分もユダヤ文化の特徴を持っており、ユダヤ人クリスチャンは自分たちを旧約にしたがった神の選民として、依然としてユダヤ民族の一部分と見なしていたこと、また彼らが旧約の神の選民と新約のキリストにある信者との区別について、明確な幻を持っていなかったことを示します。第1章1節(1:1)のノート3を参照。 |
ヤコブ 2:4 注2 |
あるいは、中で。 |
ヤコブ 2:4 注1 |
クリスチャンの兄弟たちの富める者と貧しい者との間にあった区別と、その結果である差別は、主にとって、また彼の神聖な命の救いにとって恥辱でした。 |