出典 |
フットノート |
ヤコブ 4:11 注1 |
ここと、第2章8節から11節(2:8―11)の旧約の律法に関するヤコブの言葉と、自由の完全な律法に関する第1章25節(1:25)と第2章12節(2:12)の言葉は、彼の見方では、旧約の律法を守ることと、命の内なる律法である自由の完全な律法によって生きることとの間に、何の区別もないことを示しているのでしょう。しかし、新約全体の神聖な啓示によれば、この二者の間には、明確で明白な区別があります。旧約の律法を守ることは単に、わたしたちを神と人に対して正しくさせ、わたしたちが律法によって義とされるためだけです。ところが、内なる命の律法によって生きることは(ヘブル8:10―11.ローマ8:2)、キリストを生き、キリストを大きく表現することであり(ピリピ1:20―21)、それはキリストを表現する彼のからだを建て上げ(エペソ1:22―23)、彼を満足させる神の家を建て上げるためです(Iテモテ3:15)。これは、神の新約エコノミーによる神の永遠の目標の達成です。わたしたちは、旧約の律法を守ることによって完全になったとしても、それだけでは神の永遠の目標に達することはできません。内なる命の律法によって生きることだけが、そのために役立ちます。そのような生活は自然に、また自動的に、旧約の律法の下で要求されている以上のものを満たし(ローマ8:4)、またマタイによる福音書第5章から第7章で啓示されている、王国の憲法の水準さえも満たします。 |
ヤコブ 4:13 注1 |
肉的な快楽を求めて戦うこと(1節)、世の友となること(4節)、兄弟の悪口を言うこと、すなわち、律法を裁くこと(11節)、自分の意志にしたがって商売をしに行くこと、大言壮語して誇ること(16節)はみな、神を忘れている人の不敬虔で横柄な自信のしるしです。ヤコブはこれらすべてを、おそらく、クリスチャンの実行上の完成に関する彼の観点に基づいて教えたのでしょう。 |
ヤコブ 4:14 注1 |
ヤコブのここの言葉もやはり、非常に旧約的語調と似た響きがあります(参照,詩90:3―10)。いかなる場合にも、彼の言葉は15節(15節)で表現されているように、人の自己意志についての恐れと、神への信頼を引き起こします。 |
ヤコブ 4:16 注1 |
あるいは、うぬぼれ、虚栄。 |
ヤコブ 4:17 注1 |
これは、ここまでに述べられたすべての命令に対する結びの言葉であり、もし受取人がヤコブの文書によって助けられたとしても、ヤコブが書いたように行なおうとしないなら、それは彼らにとって罪であると言っています。 |
ヤコブ 5:1 注1 |
1節から6節(1―6節)は挿入であると考えられます。その内容によれば、ユダヤ人の間で、一般の裕福な階層に語っているようです。なぜなら、ヤコブは自分の手紙の受取人を、ユダヤ人の十二部族(1:1)と見なしたからです。第1章1節(1:1)のノート3と第2章2節(2:2)のノート1を参照。 |
ヤコブ 5:4 注1 |
あるいは、懇願しています。 |
ヤコブ 5:4 注2 |
これは、ローマ人への手紙第9章29節(ローマ9:29)にあるように、ヘブル語での神の称号、エホバ・サバオス(万軍のエホバ、軍勢のエホバ―サムエル上1:3)と同じ意味の言葉です。このような称号は、ユダヤ的特徴を持っています。 |
ヤコブ 5:5 注1 |
すなわち、ほふられる日(エレミヤ12:3)、すなわち、裁きの日にさえ、放縦のどん欲で満たされ、飽きている。裁きの日には、彼らは神の裁きによって、動物のようにほふられます。これは、彼らの感覚が麻ひしており、自分の来たるべき不幸、みじめな運命に気づいていなかったことを意味します(1節)。 |
ヤコブ 5:6 注1 |
この言葉は定冠詞を伴っており、部類を指して使われる集合的な単数名詞です。ここでは直接ある個人のことを言っているのではなく、義なる方である主イエスの死を描写しています(使徒7:52.3:14)。 |