出典 |
フットノート |
1ペテ 1:7 注5 |
今日、主はわたしたちと共におられますが(マタイ28:20)、隠され、覆われています。彼の再来は彼の出現であり、その時、彼はすべての人に公に見られます。その時には彼だけでなく、わたしたちの信仰が試されることも、現れるでしょう。 |
1ペテ 1:7 注4 |
6節(6節)のさまざまな試練が臨むのは、わたしたちの信仰が試されるが、主の出現の時に、賛美と栄光と誉れという結果になるためです。 |
1ペテ 1:8 注1 |
信者たちが見たことのない方を愛するということは、驚異であり奥義です。 |
1ペテ 1:8 注2 |
「その方を」は「信じる」を修飾します。 |
1ペテ 1:8 注3 |
わたしたちが見たこともない方を愛しているのは、信じるからであり、生ける言葉を聞くことを通してわたしたちの中に注入された、その信仰のゆえです(ガラテヤ3:2)。ですから、この信仰は7節(7節)のテスト、試しを受けています。 |
1ペテ 1:8 注4 |
栄光に満ちた喜びは、栄光の中に浸された喜びです。ですから、表現された主に満ちている喜びです。 |
1ペテ 1:9 注2 |
わたしたちは三部分、霊と魂と体から成っています(参照,Iテサロニケ5:23のノート5.ヘブル4:12のノート2)。わたしたちの霊は、再生を通して救われました(ヨハネ3:5―6)。わたしたちの体は、来たるべき変貌を通して救われ、贖われます(ピリピ3:21.ローマ8:23)。わたしたちの魂は、主の出現、主の再来の時に苦難から救われ、主の全き享受に入るでしょう。このためにわたしたちは、この時代に、わたしたちの魂、魂の命をそのすべての快楽と共に、否まなければなりません。それは、わたしたちが来たるべき時代に主の享受を得るためです(マタイ10:37―39.16:24―27.ルカ17:30―33.ヨハネ12:25)。主の出現の時、ある信者たちは主の裁きの座を通して主の喜びに入りますが(マタイ25:21,23.24:45―46)、ある者は泣いて歯がみすることになるでしょう(マタイ25:30.24:51)。主の喜びに入ることは、わたしたちの魂の救いです(ヘブル10:39とノート3)。この救いは、イスラエルの子供たちが受けることを期待している体の救いよりもさらに尊いのです。 |
1ペテ 1:9 注1 |
文法によれば、この言葉は8節(8節)の続きですが、実際には7節(7節)から続きます。賛美、栄光、誉れとなって見いだされるわたしたちの信仰の試しは、わたしたちの信仰の結果、すなわち魂の救いを受けるという結果になります。 |
1ペテ 1:10 注2 |
この節の「救い」と同意語。13節(13節)ノート4を参照。「恵み」については、ヨハネ第1章14節(ヨハネ1:14)のノート6とIコリント第15章10節(Iコリント15:10)のノート1を参照。 |
1ペテ 1:10 注1 |
ペテロは主イエスが行なわれたように、旧約の預言者たちを用いて、新約の救いに関する教えを確認しました(ルカ24:25―27,44―46)。 |