出典 |
フットノート |
1ペテ 1:13 注2 |
思いにおいて冷静で透明であり、3節から12節(3―12節)に啓示されているように、恐れ、心配、心遣いによって乱されることなく、神の救いにおけるエコノミーを認識することができる。 |
1ペテ 1:13 注4 |
すなわち、魂の救い(5,9―10節)。それは神の全き救いの完成です。恵みは主の最初の到来によって、わたしたちにもたらされました(ヨハネ1:17)。それは、彼の再来によって完成します。わたしたちは、そのような恵みの上に望みを置くべきです。 |
1ペテ 1:13 注3 |
再生から生じた生ける望み(3節)。 |
1ペテ 1:14 注1 |
ローマ第12章2節(ローマ12:2)でのように。「かたどられてはいけません」は、神の選びの民が寄留者として歩む道である状態を示します。 |
1ペテ 1:15 注1 |
聖なる方は、三一の神―選ぶ御父、贖う御子、聖別するその霊(1―2節)です。御父は選びの民を再生し、彼の聖なる性質を彼らの中へ分与されます(3節)。御子は彼らを御血をもって、むなしい生活様式から贖われました(18―19節)。その霊は御父の聖い性質にしたがって彼らを聖別し、彼らを神以外のどんなものからも聖別されます(2節)。それは、彼らが御父の聖なる性質によって、神ご自身が聖であるように(15―16節)、すべての生活様式において聖となるためです。 |
1ペテ 1:15 注2 |
その霊の聖別を通して(2節)、わたしたちに神の聖なる性質をもたらし、聖なる生活に至らせる再生に基づいて(3節)。 |
1ペテ 1:17 注3 |
すなわち、ローマ第3章20節(ローマ3:20)、ガラテヤ第2章16節(ガラテヤ2:16)でのように、行状、振る舞い。 |
1ペテ 1:17 注2 |
ペテロは、「魂の最後の裁きのことを言っているのではない。その意味では、『父はだれをも裁くことはない。彼はすべての裁きを子にゆだねられた』(ヨハネ5:22)。ここで言われている事は、彼の子供たちに執行される、この世における神の行政上の日ごとの裁きである。それゆえにここで、『あなたがたの寄留の時を』と言うのである」(ダービー)。これは、神の家に対する神の裁きです(4:17)。 この二つの手紙は、神の行政と関係があるので、神の裁きと主の裁きが主要な要素の一つとして、繰り返し述べられています(2:23.4:5―6,17.IIペテロ2:3―4,9.3:7)。神の裁きは天使たちから始まり(IIペテロ2:3―4)、旧約では各世代の人を経過しました(IIペテロ2:5―9)。新約時代、裁きは神の家から始まり(17節.2:23.4:6,17)、そして主の日の到来まで継続します(IIペテロ3:10)。それは、千年期の前にはユダヤ人、信者たち、異邦人の裁きの日となるでしょう(参照,IIペテロ3:12のノート3)。千年期の後には、人と悪鬼を含めてすべての死人が裁かれて滅びます(4:5.IIペテロ3:7)、また天と地は燃え尽きます(IIペテロ3:10後半,12)。さまざまな裁きの結果は同じではありません。ある裁きの結果は訓練的な取り扱いであり、あるものは経綸上の懲らしめであり、あるものは永遠の滅びです(参照,IIペテロ2:1のノート5の要点2)。しかしながら、このすべての裁きによって、主なる神は宇宙全体を清掃し、浄化されるでしょう。それは、神が喜びのために、彼の義で満ちた新しい宇宙のために(IIペテロ3:13)、新しい天と新しい地を持たれるためです。 |
1ペテ 1:17 注1 |
わたしたちを召してくださった御父としての聖なる方は、わたしたちを再生して、聖なる家族(聖なる父と聖なる子供たち)を生み出されました。わたしたちは聖なる子供として、聖なる生活様式で歩くべきです。そうでないと、御父は裁判官となり(4:17)、わたしたちの聖でないものを対処されるでしょう。彼は、内側で命をもってわたしたちを生んで、わたしたちに彼の聖なる性質を持たせてくださいました。彼がわたしたちを外側で裁きをもって懲らしめるのは、わたしたちが彼の聖にあずかるためです(ヘブル12:9―10)。彼の裁きは、人を偏り見ることなく、わたしたちの行ない、振る舞いにしたがって行なわれます。ですから、わたしたちは寄留の時を、畏れのうちに過ごすべきです。わたしたちが彼をわたしたちの父と呼ぶのであれば、彼をわたしたちの裁判官として畏れ、畏れのうちに聖なる生活をすべきです。 |
1ペテ 1:17 注4 |
ピリピ第2章12節(ピリピ2:12)でのように、聖なる畏れ。すなわち、わたしたちを導いて聖く振る舞わせる、健康で、真剣な用心。そのような畏れが、本書で何度も述べられています(参照,引照聖句17e)。なぜなら、本書の教えは神の行政と関係があるからです。 |