出典 |
フットノート |
マタイ 20:16 注1 |
後の者とは最後の労働者であり、先の者とは最も初期の労働者です。働くことでは、最も初期の者たちが最初にやって来ました。しかし褒賞を受ける時には、後の者が最初になりました。主はこのようにして、後の者を先に、先の者を後にされます。 |
マタイ 20:18 注1 |
主が弟子たちにご自身の死を啓示されたのは、これが三度目でした。最初はピリポ・カイザリヤにおいて、彼の変貌の前でした(16:13,21)。二度目はガリラヤにおいて、彼の変貌の後でした(17:22)。三度目はエルサレムへの途上においてでした。この啓示は預言であり、弟子たちの天然の観念には全く異様なものでした。それにもかかわらず、あらゆる詳細にわたって文字どおりに成就しました。 |
マタイ 20:20 注1 |
ヨハネとヤコブ。 |
マタイ 20:22 注1 |
王国で座に着くことを求めるなら、わたしたちは苦難の杯を飲むことを覚悟しなければなりません。十字架を耐え忍ぶことが、王国に入る道です(使徒14:22)。ヨハネとヤコブの母の自己本位の懇願は、主が王国に入る道を啓示される機会を与えました。 |
マタイ 20:23 注1 |
人の立場に立って、主は完全に御父に従い、御父を差し置いて何事をする権利も主張されませんでした。 |
マタイ 20:26 注1 |
これは、天然の自己追求の思いとは完全に正反対です。十人の弟子たちの憤慨も(24節)、主が王国の生活の方法を啓示される機会を与えました。すなわち、他の人を支配するよりは、むしろ進んでしもべとして、奴隷(27節)として、人に仕えようとする道です。 |
マタイ 20:27 注1 |
26節(26節)のノート1を参照。 |
マタイ 20:28 注1 |
王国に関するこの書では、主はいつも人の立場に立っておられます。天の王国は、神聖な命で構成されていますが、人性において実現されます。 |
マタイ 20:28 注2 |
文字どおりには、魂、魂の命。 |
マタイ 20:30 注1 |
イスラエルの子たちのためのキリストの王なる称号。第15章22節(15:22)のノート2を参照。 |