出典 |
フットノート |
2ペテ 1:1 注9 |
わたしたちの神は義です。神の義を通して、神は尊い信仰を神聖な分け前として、キリストにあるすべての信者に、ユダヤ人にも異邦人にも、人を偏り見ることなく、等しく割り当てられました。今や彼は、わたしたちの神であるだけでなく、わたしたちの救い主でもあります。ですから今や彼の義は、神の義だけでなく、キリストの義だけでもなく、わたしたちの神また救い主であるイエス・キリストの義です。主がわたしたちの救い主であることから言えば、彼の義は彼の義なる行為です。すなわち、彼は絶対的に従順に十字架上で死に(ピリピ2:8)、それによってわたしたちのために贖いを達成し(ヘブル9:12)、わたしたちを神によって義とされます(ローマ5:18)。主がわたしたちの神であることから言えば、彼の義は彼の公正です。ですから、彼はわたしたちの救い主イエス・キリストの義なる行為、贖いに基づいて(ローマ3:24―25)、ユダヤ人と異邦人(ローマ3:30)、すべてキリストにある信者たちを(ローマ3:26)義とされます。そのような二重の義、わたしたちの神また救い主であるイエス・キリストの義の中で、またそれによって、尊い信仰、新約の祝福の尊い実体化が、すべての諸国民のすべての信者に等しく割り当てられたのです。 |
2ペテ 1:1 注8 |
の領域の中で。 |
2ペテ 1:1 注7 |
使徒ペテロと、ユダヤの地にいる他のすべての信者のことを言っています。異邦人世界のすべての信者は、神によって割り当てられた共通の分け前として、ユダヤの地にいるすべての人と共に、新約の命の祝福を実体化する同じ尊い信仰を分け合っています。 |
2ペテ 1:1 注6 |
ギリシャ語は、「等しい価値」、あるいは「尊貴」を意味します。ですから、同じ尊い。量において同じではなく、価値と尊貴において受ける者すべてに対して同じ。 |
2ペテ 1:1 注5 |
信仰は真理の実際の実体化であり(ヘブル11:1)、この真理は神の新約エコノミーの内容の実際です。神の新約エコノミーの内容は、「命と敬虔にかかわるすべての事柄」から成っています(3節)。すなわち、三一の神はご自身をわたしたちの中に、わたしたちの内側の命、外側の敬虔として分与されます(参照,Iテモテ1:1のノート1の要点1,2,4,5と最後の段落)。神の新約エコノミーの言葉とその霊を通して、神によってわたしたちに割り当てられた同じ尊い信仰は、そのような内容の実際に呼応し、わたしたちをその実際へ招き入れ、その実質をわたしたちのクリスチャン生活と経験の要素とさせます。そのような信仰が、キリストにあるすべての信者たちに分け前として割り当てられています。それは、それを受けた者すべてにとって、同じ尊いものです。神からのそのような分け前として、この信仰は神聖な真理において、わたしたちにとって客観的です。しかし、信仰はその実体化の内容すべてをわたしたちの中へもたらし、こうして、それらすべてを信仰自身と共に、わたしたちの経験の中で、わたしたちにとって主観的なものにします。それは、風景(真理)とそれを見ること(信仰)が、カメラ(わたしたち)にとって客観的であるようなものです。しかし、光(その霊)がその風景をカメラの内側のフィルム(わたしたちの霊)にもたらす時、見ることと風景がいずれも、カメラにとって主観的になります。 |
2ペテ 1:1 注4 |
イスラエルの子たちが一区画の良き地を割り当てられたのと同じように(ヨシュア13:6.14:1―5.19:51)。これは、「命と敬虔にかかわるすべての事柄」(3節)が、尊く際立って偉大な約束による同じ尊い信仰を通して、信者たちがあずかっている神聖な性質(4節)を含めて、神が新約で信者たちに与えられた実際の嗣業であることを意味します。 |
2ペテ 1:1 注3 |
異邦人世界にまき散らされているユダヤ人信者のことを言っています(Iペテロ1:1)。 |
2ペテ 1:2 注1 |
あるいは、恵みと平安が、あなたがたに増し加えられますように。 |
2ペテ 1:2 注5 |
幾つかの写本は、わたしたちの主イエス・キリスト、となっています。 |
2ペテ 1:2 注4 |
これは、完全な、経験的な知識を言っています。三一の神を知る全き知識は、わたしたちが彼の神聖な命と神聖な性質にあずかり、享受するためです。それは、背教の中で召会に侵入した人の哲学的論理の殺す知識とは対照的です。 |