出典 |
フットノート |
2ペテ 1:2 注3 |
の領域の中で、の手段によって。 |
2ペテ 1:2 注2 |
恵みと平安は、神の割り当てられた信仰を通してわたしたちに来ました。信仰は、新約の命の祝福を実体化します(1節)。この信仰は、神の言葉を通してわたしたちに注入されましたが、神の言葉は、神またわたしたちの主イエスを知る真の知識をわたしたちに伝達します。神またわたしたちの主イエスを知る全き知識の領域の中で、増し加わっていく、また増し加えられた知識の手段によって、わたしたちが受けてきた恵みと平安は増し加えられます。 |
2ペテ 1:3 注1 |
第2章は、この手紙がIIテモテ、IIヨハネ1:、IIIヨハネ1:、ユダの各書簡と同じように、召会の堕落と背教の時に書かれたことを示しています。ですから、背教が本書の背景です。筆者の負担は、背教の毒に対抗して信者たちに予防接種することでした。神の救いは、三一の中のご自身を信者たちの中に分与して、彼らの命また命の供給とすることです。これが神のエコノミー、神のご計画です。背教は、信者たちを神のエコノミーから、困惑させる人の哲学、人の論理へそらせました。それは命を与える命の木にあずからせることではなく、死をもたらす知識の木にあずからせることです(創2:9,16―17)。こうして蛇は、エバを欺き、誘惑しました(創3:1―6)。使徒はこの死の毒に対抗して予防接種するために、まず彼のいやしの手紙の中で、最も強力で最も有効な解毒剤として、神聖な力を処方しました。これは信者たちに、再生し供給する神聖な命(殺す知識ではない)と、神を表現する敬虔(人の知恵の見せびらかしではない)に関するすべての事柄を備えています。この豊富な神聖な備えは(続く節から11節までにさらに詳細に扱われている)、信者たちが正当なクリスチャン生活を生き、サタン的背教に打ち勝つことができるのに余りあるものです。 「神聖な」は、神の永遠、無限で全能な神聖を示しています。ですから、神聖な力は神聖な命の力であって、それは神聖な性質に関係があります。 |
2ペテ 1:3 注10 |
すなわち、神の表現、輝きの中に表現された神。 |
2ペテ 1:3 注11 |
文字どおりには、卓越性(参照,ピリピ4:8のノート7)。それは、すべての障害に打ち勝たせ、すべての卓越した特質を遂行させる命のエネルギーを示しています。栄光は神聖なゴールであり、美徳はゴールに達する命のエネルギーと力です。この美徳と、命にかかわるすべての事柄は、神聖な力によってわたしたちに与えられていますが、栄光に達する途上で発展させられていく必要があります。 |
2ペテ 1:3 注9 |
あるいは、に。 |
2ペテ 1:3 注8 |
わたしたちの救い主また主イエス・キリストである神のことを言っています(1―2節)。神はご自身の栄光と美徳によって、わたしたちをその栄光と美徳に召してくださいました。彼の弟子たちは彼の栄光と美徳を見て(16節.ヨハネ1:14)、それに引き付けられました。それから、神はこの栄光の美徳を通して、彼らをこの栄光と美徳に召されました。それは、キリストにあるすべての信者についても同じです。 |
2ペテ 1:3 注7 |
これは、十分な経験的知識を言っています。 |
2ペテ 1:3 注6 |
命にかかかわるすべての事柄をわたしたちに与えることは、神を知る全き知識を通してであり、その知識は彼の言葉を通してわたしたちに伝えられ、啓示されます。これは(客観的な)その信仰となり、その中でわたしたちの(主観的な)信仰が生み出されます。 |
2ペテ 1:3 注4 |
命は内側にあり、わたしたちが生きるためのものです。また敬虔は外側で、内側の命が外側に表現されることです。命は内側のエネルギー、内側の力であり、外側の敬虔を生み出し、それは栄光へ導き、また栄光という結果になります。 |