出典 |
フットノート |
2ペテ 3:17 注3 |
第2章7節(2:7)のノート2を参照。「不法の者」は、初期の異端者であった偽教師たちやあざける者たちのことを言っているに違いありません(2:1.3:3)。 |
2ペテ 3:17 注2 |
ガラテヤ第2章13節(ガラテヤ2:13)で、ペテロ、バルナバや、その他のユダヤ人信者たちに対して用いられたのと同じ言葉。 |
2ペテ 3:17 注4 |
これは不安定になることです(16節)。 |
2ペテ 3:17 注1 |
背教、異端的教えのゆえに、警戒しなさい。それは、使徒の手紙や聖書を曲解することによって、あなたがたを破壊に引きずり込むかもしれません(16節)。 |
2ペテ 3:18 注2 |
ヨハネ第1章14節(ヨハネ1:14)のノート6,Iコリント第15章10節(Iコリント15:10)のノート1,IIコリント第13章14節(IIコリント13:14)のノート1を参照。 |
2ペテ 3:18 注3 |
わたしたちの主を知る知識の実際化は、すなわち、真理、主であるすべての実際です(参照,ヨハネ1:14,17とそのノート1)。ペテロは恵みの中だけでなく、この真理の中でも成長するようにと、信者たちに勧めました。 |
2ペテ 3:18 注1 |
これは、ペテロが二つの手紙で書いたことが、命の事柄であることを示しています。恵みの中で成長するとは、神聖な力によって備えられた永遠の命の豊かな供給によって成長することです(1:3―4)。主を知る知識の中で成長するとは、キリストが何であるかを認識することによって成長することです。これは、恵みの享受と真理を認識することによって成長することです(ヨハネ1:14とノート6,17とノート1)。 |
2ペテ 3:18 注4 |
わたしたちの主また救い主イエス・キリストのことを言っています。そのような賛美は、神に帰せられるものですから(ローマ11:36.16:27)、わたしたちの主また救い主イエス・キリストが神であることを示しています。 |
1ヨハ 1:1 注2 |
これは、ヨハネによる福音書の「初めに」(ヨハネ1:1)とは違います。「初めに」という時、それは創造以前の永遠の過去へさかのぼります。「初めから」という時、それは創造から先へ進みます。これはヨハネの手紙が、信者たちの神聖な命の経験に関する彼の福音書の継続であることを示しています。彼は福音書で、罪人が永遠の命を受ける道が神の御子を信じることであることを見せています。書簡では、神聖な命を受けた信者たちが、交わりの中で命を享受する道が、神の御子の中に住むことであることを指摘します。啓示録では、永遠の命の完成を、永遠における信者たちの完全な享受として開いて見せます。 この「初めから」という句は、ヨハネによる福音書では二回、この手紙では八回、第二の手紙では二回、使われています。ヨハネ第8章44節(ヨハネ8:44)、Iヨハネ第1章1節(Iヨハネ1:1)、第2章13から14節(Iヨハネ2:13―14)、第3章8節(Iヨハネ3:8)では、絶対的意味で使われています。ヨハネ第15章27節(ヨハネ15:27)、Iヨハネ第2章7(Iヨハネ2:7)、24節(Iヨハネ2:24)、(二回)、第3章11節(Iヨハネ3:11)、IIヨハネ1:5から6節(IIヨハネ1:5―6節)では、相対的意味で使われています。 |
1ヨハ 1:1 注1 |
パウロの務めは、神の新約エコノミーの神聖な啓示を完成することでした(コロサイ1:25―27)。それは、三一の神がキリストの中で命を与える霊となり、キリストの肢体を生み出し、キリストのからだを構成し、建造して、三一の神が宇宙において完全な表現―神の豊満(エペソ1:23.3:19)を持たれることです。パウロの文書は紀元67年ごろには書き終えられていましたが、彼の完成する務めは彼の死の前後に、背教によって損傷を被りました。それから約二十五年後、紀元90年ごろ、ヨハネの文書が出てきました。彼の務めはパウロの損なわれた務めを繕うだけでなく、旧約と新約の両方の、また福音書と書簡の両方の、神聖な啓示の全体を完成することでもありました。そのような務めにおける焦点は、神聖な命の奥義です。福音書の完成であるヨハネの福音書では、主イエス・キリストのパースンとみわざの奥義が啓示されています。書簡の完成としてのヨハネの手紙(特に第一の手紙)では、神聖な命の交わり、すなわち神の子供たちと御父である神との交わり、また神の子供たちの相互間の交わりの奥義が開かれています。それから新約と旧約の完成であるヨハネの啓示録では、キリストが神の子供たちへの命の供給であり、彼が表現され、三一の神の宇宙的行政の中心であるという奥義が啓示されています。ここでヨハネは「もの」という表現を使って彼の書簡を始めており、神聖な命の中の交わりの奥義を啓示します。彼が主のことを言うのに、人称代名詞を使わなかったのは、彼が開いて見せようとしたものが奥義的であることを意味しています。 |