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出典

フットノート

1ヨハ 1:7 注3 わたしたちは神聖な光の中に生きる時、その光の照らしの下にあります。この光は、神の神聖な性質によって、わたしたちの中にある彼の性質を通して、わたしたちのすべての罪、違反、失敗、欠点を暴露します。それらは神の純粋な光、完全な愛、絶対的な聖、卓越した義に矛盾します。そのような時、わたしたちは照らされた良心の中で、主イエスの贖いの血の清めが必要であると感じます。そして、その血はわたしたちの良心の中で、すべての罪からわたしたちを清め、神との交わり、また互いの交わりが維持されます。神とわたしたちとの関係は、壊れることはありません。ところが、神との交わりは中断することがあるのです。前者は命からです。後者も命からですが、わたしたちの生活に基づいています。前者は無条件であり、後者には条件があります。この条件付きのほうは、主の血の不断の清めによって、維持される必要があります。
 御言のこの部分で、わたしたちの霊的生活には循環があります。その循環は、四つの重要なもので形成されます。すなわち、永遠の命、永遠の命の交わり、神聖な光、神の御子イエスの血です。永遠の命は命の交わりを生み出し、永遠の命の交わりは神聖な光をもたらし、神聖な光は神の御子イエスの血の必要を増し加えます。それは、わたしたちがさらに多く永遠の命を持つためです。わたしたちが永遠の命を持てば持つほど、この命はますます多く、命の交わりをもたらします。わたしたちが神聖な命の交わりを享受すればするほど、ますます多く、神聖な光を受けます。わたしたちが神聖な光を受ければ受けるほど、ますます多く、イエスの血の清めにあずかるのです。このような循環は、神聖な命の成長においてわたしたちを前進させ、命の円熟にまで到達させます。
1ヨハ 1:7 注6 新約は、単数の罪と複数の罪を用いて、罪の問題を取り扱っています。単数の罪は内住の罪であり、アダムを通してサタンから人類へ入り込みました(ローマ5:12)。それはローマ人への手紙の第二区分、第5章12節から第8章13節で取り扱われています(ローマ7:5は例外で、そこでは複数の罪を言っています)。複数の罪は、罪の行為、内住の罪の実を言っており、ローマ人への手紙の第一区分、第1章18節から第5章11節で取り扱われています。しかしながら、この節の単数の罪と形容詞「すべての」は、内住の罪を指すのではなく、わたしたちが再生された後に犯した(10節)個々の単一の罪を指します。その罪は、わたしたちの清められた良心を汚すので、神との交わりの中で、主の血によって清められる必要があります。
 わたしたちの単数の罪、わたしたちの性質に内住している罪(ローマ7:17)は、わたしたちの罪のためのささげ物としてのキリスト(レビ第4章.イザヤ53:10ローマ8:3IIコリント5:21ヘブル9:26)によって解決されました。わたしたちの複数の罪、わたしたちの違犯は、わたしたちの違反のためのささげ物としてのキリスト(レビ第5章.イザヤ53:11Iコリント15:3Iペテロ2:24ヘブル9:28)によって解決されました。しかしながら、わたしたちは再生された後も、わたしたちの性質における罪のために、8節(8節)で示されているように、キリストをわたしたちの罪のためのささげ物として取り、わたしたちの行ないにおける罪のために、9節(9節)で示されているように、キリストをわたしたちの違反のためのささげ物として取る必要があります。
1ヨハ 1:7 注5 ギリシャ語のこの動詞の時制は現在形であり、継続的な行動を意味しており、神の御子イエスの血がいつも、継続的に、絶えずわたしたちを清めることを示しています。ここで清めるとは、わたしたちの良心における主の血の即時の清めを言います。神の御前で、主の贖いの血はわたしたちを一度限り、永遠に清めました(ヘブル9:12,14)。その清めの効力は神の御前で永遠に続き、繰り返す必要はありません。しかし、わたしたちの良心においては、神との交わりの中で神聖な光によって良心が照らされる時はいつでも、わたしたちは繰り返し、主の血の絶え間ない清めを即時に適用する必要があります。この即時の清めは、雌牛の灰と混合した汚れの水でのきよめによって予表されています(民19:2―10)。
1ヨハ 1:8 注1 罪は、原文は単数。罪がないとは、自分の性質の内に内住の罪がないことです(ローマ7:17)。これは、グノーシス派の異端が教えたことです。使徒はこの虚偽の教えに対抗して、信者たちに予防接種しました。この区分(1:7―2:2)は、再生の後に信者が罪を犯すことを取り扱っています。そのように罪を犯すことは、神との交わりを遮断します。信者たちが再生された後、彼らの性質の中に罪がないとしたら、どうして行為において罪を犯すことがあり得るでしょうか? たとえ彼らがたまに罪を犯すだけで習慣的でなくても、罪を犯すことは、彼らが内側に働いている罪を依然として持っていることの十分な証拠です。そうでなければ、神との交わりには何の遮断もないでしょう。ここでの使徒の教えはまた、今日の「完全論」の教えを罪に定めます。この教えは、罪から解放された状態が地上の生涯で到達され得る、あるいは到達されたと言います。それはまた、今日の「根絶説」の間違った教えを廃棄します。この教えは、第3章9節(3:9)と第5章18節(5:18)の言葉の誤った解釈によって、再生された人の罪深い性質は根絶されたので、罪を犯すことはあり得ないと言います。
1ヨハ 1:8 注2 あるいは、自分を迷わせている。わたしたちは再生されたのですから、罪(単数)がないというのは、自分を欺くことであり、自分自身の経験という実際的な事実を否定しています。ですから、自分を迷わせることになります。
1ヨハ 1:8 注3 「真理」は啓示された神の実際、福音の中で伝達された真の事実を示します。例えば、神とすべての神聖な事柄の実際(このすべての神聖な事柄は、みなキリストです―ヨハネ1:14,1714:6)、キリストとすべての霊的な事柄の実際(このすべての霊的な事柄は、みなその霊です―ヨハネ14:1715:2616:13Iヨハネ5:6)、人の状態の実際(ヨハネ16:8―11)です。6節(6節)のノート6を参照。ここでは特に、わたしたちの再生の後、神との交わりにおける、神聖な光の照らしの下で暴露された、罪深い状態の実際を示しています。もしわたしたちが、再生された後、自分には罪がないと言うなら、そのような実際、真理は、わたしたちの中にとどまっていません。すなわち、わたしたちは、再生後の真の状態を否定しているのです。
1ヨハ 1:9 注1 罪は、原文は複数。これは、再生後のわたしたちの罪(複数)、失敗の告白を示すのであって、再生前のわたしたちの罪(複数)の告白を示すのではありません。
1ヨハ 1:9 注2 神は彼の言葉において信実であり(10節)、御子イエスの血において義です(7節)。神の言葉は、福音の真理の言葉です(エペソ1:13)。それは、神がキリストのゆえにわたしたちの罪を赦し(使徒10:43)、またキリストの血が神の義の要求を満たして、神がわたしたちの罪を赦すことができるようにしたことを告げています(マタイ26:28)。わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は彼の言葉にしたがって、イエスの血による贖いに基づいて、わたしたちを赦されます。なぜなら、神は彼の言葉において信実でなければならず、イエスの血において義でなければならないからです。そうでないと、神は不信実となり、不義となるでしょう。神の赦しには、わたしたちの告白が必要です。神との交わりを回復するためには、神のそのような赦しは条件付きであり、それはわたしたちの告白にかかっています。
1ヨハ 1:9 注3 原文は、複数。
1ヨハ 1:9 注5 「不義」と「罪」は同意語です。すべての不義は罪です(5:17)。両方ともわたしたちの間違った行為を言います。「罪」は、神と人に対するわたしたちの間違った行為のとがめを示します。「不義」は、わたしたちの間違った行為の汚れを示し、それは神と人に対して正しくないようにします。とがめは神の赦しを必要とし、汚れは神の清めを必要とします。神の赦しと神の清めは、神との中断された交わりを回復するために必要です。それは、わたしたちが、とがめのない正しい良心をもって(Iテモテ1:5使徒24:16)、妨げのない交わりの中で、彼を享受するためです。
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