出典 |
フットノート |
1ヨハ 3:2 注4 |
彼を見ることによって、わたしたちは彼の姿を映し(IIコリント3:18)、これはわたしたちを、彼であるのと同じようにします。 |
1ヨハ 3:3 注1 |
主のようになる望み、三一の神の姿を持つという望み。 |
1ヨハ 3:3 注3 |
文字どおりには、あの方。イエス・キリストを言っています。5節(5節)、(一回目)と7節(7節)もそうです。 |
1ヨハ 3:3 注2 |
第2章28節から第3章24節の区分の文脈によれば、自分をきよくするとは、義を行なうこと(7節.2:29)、義なる神(1:9)、義人(2:1)の表現である義なる生活を生きることです。これは、彼が完全にきよくあられるのと同じように、不義のどんな汚れもなく、きよくあることです。これも、主の中に住む生活を記述しています。 |
1ヨハ 3:4 注1 |
罪は、原文は単数。第1章6節(1:6)のノート5を参照。罪を犯すとは、ときどき罪を犯すという行為だけでなく、罪の中に生きること(ローマ6:2)、人を支配する神の原則の下にいない生活をすることです。 |
1ヨハ 3:4 注2 |
すなわち、律法を持たない、律法がない。それは、モーセの律法がないことを示すのではありません(参照,ローマ5:13)。なぜなら、モーセの律法が与えられる前に、すでに罪は世にあったからです。ここの律法がないとは、人を支配する神の原則がなく、その下にいないことを示します。不法を行なうとは、人を支配する神の原則の外で、その原則の下にいない生活をすることです。ですから不法は罪であり、反対から言えば、罪は不法です。 |
1ヨハ 3:5 注2 |
原文は、複数。 |
1ヨハ 3:5 注1 |
ヨハネによる福音書第1章29節(ヨハネ1:29)にあるのと同じギリシャ語。そこでは、神の小羊キリストが、アダムを通して世に入ってきた(ローマ5:12)世の罪(単数)を取り除きます。ここでは、彼はすべての人が犯す罪(複数)を取り除きます。ヨハネによる福音書第1章は、罪の性質と行ないを含めた罪の総合計を取り扱います。この章は罪の実、すなわち、人が日常の生活の中で犯す罪を取り扱います。両方とも、キリストによって取り除かれます。 |
1ヨハ 3:5 注3 |
罪(罪の性質)ともろもろの罪(罪の行為)を取り除く方の中には、罪(単数)は存在しません。ですから、彼は罪を知らず(IIコリント5:21)、罪を犯さず(Iペテロ2:22)、彼には罪がありませんでした(ヘブル4:15)。これは、内住の罪(単数)と、人が日常生活で犯した罪(複数)を取り除くよう、彼を資格づけました。 |
1ヨハ 3:6 注1 |
すなわち、神聖な命の交わりの中にとどまっており、神聖な光の中を歩く(1:2―3,6―7)。第2章27節(2:27)のノート8を参照。 |