聖書セミナー2025年9月20日(土)開催&聖書セミナーforビギナーズ2025年9月6日(土)開催
オンライン聖書―回復訳─注解検索結果オンライン聖書―回復訳─注解検索結果

[1ページ目] [前10ページ] [871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 ] [後10ページ] [最後のページ] 876/981ページ 計9804

出典

フットノート

1ヨハ 3:8 注1 最初の「犯す」は、文字どおりには、実行する。第1章6節(1:6)のノート5を参照。この節は、罪を実行すること(参照,4節のノート1)と罪を犯すことが本書では同意語であり、罪の中に生きること、罪を習慣的に犯すことを指すことを示しています。そのような生活は、悪魔から出ています。悪魔の生活は罪の生活であり、悪魔は初めから絶えず罪を犯してきました。罪は彼の性質であり、罪を犯すことは彼の性格です。
1ヨハ 3:8 注4 文字どおりには、これへと、すなわち、これを目当てとして。悪魔は昔から絶えず罪を犯し、自分と共に罪を犯す罪人を生みます。ですから、このことのゆえに、神の御子が現れました。それは、御子が悪魔の罪深い行為を破壊し、滅ぼすためです。すなわち、十字架上の死を通して、肉体の中で、悪しき者である彼によって始められた罪を罪定めし(ローマ8:3)、罪の力、悪魔の罪深い性質を滅ぼし(ヘブル2:14)、単数の罪も複数の罪も取り除くためです(5節のノート1)。
1ヨハ 3:8 注5 あるいは、解除する、無効にする。
1ヨハ 3:9 注1 第2章29節(2:29)のノート7を参照。
1ヨハ 3:9 注2 犯すは、文字どおりには、実行する。罪を犯さないとは、わたしたちがときどき、行為において罪を犯さないというのではなく、わたしたちが罪の中に生活しないことを意味します。4節(4節)のノート1を参照。
1ヨハ 3:9 注3 これは神の命を言います。神の命は、わたしたちが神から生まれた時、神から受けました。この命は神聖な種として、すべての再生された信者の中に住んでいます。ですから、そのような者は罪を犯さないし、罪を犯すことができません。
1ヨハ 3:9 注4 すなわち、習慣的に罪の中に生きていることができません。再生された信者も、時には罪の中に落ち込むことがあります。ところが、彼の再生された性質の中の、神聖な種としての神聖な命は、彼が罪の中に生きているのを許しません。これは、羊が泥の中に落ち込むことはあっても、羊の清い命は、豚のように泥の中にとどまり、泥の中を転げ回ることを許さないのと同じです。
1ヨハ 3:10 注1 罪を実行するか実行しないか、罪の中に生きているか生きていないかは、行ないの問題ではなく、わたしたちがだれの子供であるのか、神の子供たちであるのか、それとも悪魔の子供たちであるのかの問題です。ですから、それは命と性質の事柄です。人は、アダムの堕落した子孫として、悪しき者、悪魔の子供に生まれ(ヨハネ8:44)、悪魔の命を持ち、その性質にあずかり、自然に習慣的に罪の中に生きます。罪を犯すことが、彼らの生活です。しかし贖われ、堕落した状態から離れて、霊の中で再生された信者は、神の子供たちであって、神の命を持ち、神の性質にあずかっており、罪の中には生きていません。義を行なうことが、彼らの生活です。一人の人が神の子供であるか、悪魔の子供であるかは、義を行なうのか、罪を犯すのか、その行なうことによって明らかです。再生した信者も罪を犯すかもしれませんし、また救われていない人も義を行なうかもしれません。しかし、それは両方とも彼らの外側の振る舞いであって、彼らの外側の生活ではありません。ですから、彼らの内側の命と性質において彼らが何であるかを現してはいません。
1ヨハ 3:10 注2 義は神の行ないの性質であり、愛は神の本質の性質です。神であることは愛であり、神の行なわれることは義です。愛は内側のものであり、義は外側のものです。ですから、愛は義以上に、わたしたちが神の子供たちであることの有力な現れです。こういうわけで、使徒はこの節から24節(10―24節)で、神の子供たちの生活の現れにおいて、義から愛へ言葉を進めるのです。愛は、主の中に住む生活のさらに進んだ条件です。
1ヨハ 3:11 注2 相対的な意味で(参照,1:1のノート2、第二段落)。
[1ページ目] [前10ページ] [871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 ] [後10ページ] [最後のページ] 876/981ページ 計9804

オンライン聖書―回復訳-注解検索結果