出典 |
フットノート |
1ヨハ 4:17 注2 |
12節(12節)のノート4を参照。 |
1ヨハ 4:17 注4 |
彼の再来の時(Iコリント3:13.4:5.IIテモテ4:8)、キリストの裁きの座での裁き(IIコリント5:10)。 |
1ヨハ 4:17 注3 |
第3章21節(3:21)のノート1を参照。そこでの大胆さは、わたしたちが神との交わりの中で神と接触することです。ここでの大胆さは、わたしたちがキリストの裁きの座で裁きに直面することです。 |
1ヨハ 4:17 注5 |
第3章3(3:3),7節(3:7)のように、これはキリストのことを言っています。キリストはこの世で、愛としての神の命を生きられました。そして彼は今や、わたしたちの命です。それは、わたしたちもこの世で同じ愛の命を生き、彼と同じようになるためです。 |
1ヨハ 4:18 注1 |
「恐れ」とは、「これから」神を怒らせ、彼に裁かれるのを恐れることではなく(Iペテロ1:17.ヘブル12:28)、わたしたちが神を怒らせて「しまった」ので、彼に裁かれるのを恐れることを言います。「愛」は、前の節で述べられた全うされた愛、わたしたちがそれをもって人を愛している神の愛を言います。 |
1ヨハ 4:18 注2 |
完全な愛は、わたしたちが神の愛で人を愛することによって、わたしたちの中で全うされた愛です(17節)。そのような愛は恐れを追い出し、主の来臨の時に、彼に罰せられるという恐れを持ちません(ルカ12:46―47)。 |
1ヨハ 4:18 注3 |
すなわち、神の愛の中で生きて神の愛が彼の中で完全に現されることがなかった。12節(12節)のノート4を参照。 |
1ヨハ 4:19 注1 |
神はまずわたしたちを愛してくださいました。そして彼の愛をわたしたちに注入し、わたしたちの内側に愛を生み出し、その愛をもってわたしたちが神を愛し、兄弟たちを愛するようにされました(20―21節)。 |
1ヨハ 4:20 注1 |
習慣的に兄弟を憎んでいる者は、彼が神聖な愛の中にも、神聖な光の中にも住んでいないことを証明します(2:9―11)。わたしたちが主の中に住んでいる時、神聖な愛と神聖な光の中に住んでいます。わたしたちは兄弟を憎まず、習慣的に彼らを愛しており、神聖な光と神聖な愛の中で神聖な命を生きています。 |
1ヨハ 5:1 注1 |
グノーシス派とケリントス派は、イエスとキリストが同じ方であることを信じませんでした(参照,2:22のノート1と4:3のノート1)。ですから彼らは、神から生まれた神の子供たちではありませんでした。しかし、人なるイエスはキリストであり、受肉した神である(ヨハネ1:1,14.20:31)と信じる者はすべて、神から生まれ、神の子供たちとなりました(ヨハネ1:12―13)。そのような者は生んでくださった父なる神を愛し、また同じ父から生まれた兄弟も愛します。これは、その前の節の言葉(4:20―21)を説明し、確証し、強めます。 |