出典 |
フットノート |
マタイ 24:33 注1 |
「これらすべての事」は、7節から32節(7―32節)で予言された事柄を言っています。 |
マタイ 24:33 注2 |
「それ」は、32節(32節)の夏で象徴されているイスラエル王国の復興を言っています(使徒1:6)。 |
マタイ 24:34 注1 |
ここの「世代」は、第1章17節(1:17)の世代のように、時代や人々による世代ではありません。それは11:16、12:39,41―42,45、箴言30:11―14の世代のように、人々の道徳的状況による限定された世代です。 |
マタイ 24:36 注1 |
人の子(37節)の立場に立っている御子は、彼の再来の日、時を知っておられません。 |
マタイ 24:37 注1 |
主の到来(パルーシア)はノアの「日」のようです。これは、主のパルーシアが来ようとする時、それはノアの日のようになることを示しています。すなわち、主の来られる前の状態は、ノアの日のようになります。 |
マタイ 24:38 注1 |
「なぜなら」は、この節が、なぜ、どのように、主のパルーシアがノアの日のようであるかの説明であることを示します。ノアの日には次のような状態が存在しました。(1) 人々は食べること、飲むこと、めとること、嫁ぐことに惑わされていました。(2) 洪水が来て彼らを取り去るまで、彼らは知りませんでした。主のパルーシアの時も、人々は同じようになり、生活の必要事に惑わされて、神の裁き(洪水で象徴される)が主の現れによって彼らに臨むことを知りません。しかしながら、信者たちは麻薬を飲まされずに、キリストが来てこの腐敗した世に神の裁きを執行されることを、はっきりと知っているべきです。 |
マタイ 24:38 注2 |
食べること、飲むこと、めとることは、もともと人の生存のために、神によって定められていました。しかし人の情欲のゆえに、サタンはこれらの人の生活の必要事を利用して、人を占有し、人を神の益から引き離してしまいます。主のパルーシアの到来が近づいたこの時代の終わりに、このような状態はさらに激化するでしょう。 |
マタイ 24:40 注1 |
「その時」は、世の人々が物質の事柄に惑わされ、来たるべき裁きについて何の感覚もなく過ごしている間に、冷静で目を覚ましている信者たちの何人かが取り去られることを示します。惑わされ無感覚になった人々にとって、このことは、キリストの到来の一つのしるしであるはずです。 |
マタイ 24:40 注2 |
これらの人は、キリストにある兄弟であるに違いありません。 |
マタイ 24:40 注3 |
「畑にいる」ことも「うすをひいている」ことも、生活のために働いていることを象徴します。信者たちは、生活の必要事に惑わされるべきではないとはいえ、生計のために働く必要があります。生計のために正当な働きを放棄するというどのような思想も、サタンの策略の別の極端です。 |