出典 |
フットノート |
マタイ 5:5 注1 |
「柔和」であるとは、この世の反対に抵抗せず、進んでそれを受けることを意味します。 |
マタイ 5:5 注2 |
わたしたちが柔和であり、この時代に世の反対を喜んで受けるなら、来たるべき時代に地を受け継ぎます。それは、ヘブル第2章5節から8節と、ルカ第19章17、19節に啓示されています。 |
マタイ 5:6 注1 |
ここの義は、振る舞いにおいて正しいことを意味します。わたしたちはこの義に飢え渇き、そのような義を追い求める必要があります。そうすれば、わたしたちは天の王国に入ることができます(10、20節)。 |
マタイ 5:6 注2 |
わたしたちが義に飢え渇くなら、神はわたしたちが追い求める義を与え、わたしたちはその義で満ち足りるでしょう。 |
マタイ 5:7 注1 |
義であるとは、人が受けて当然のものをその人に与えることですが、あわれみ深いとは、その人が受ける権利を持っていなくても、何かを与えることです。天の王国のために、わたしたちは義であるだけでなく、あわれみ深くある必要もあります。 |
マタイ 5:7 注2 |
あわれみを受けるとは、わたしたちに受ける権利がないものを受けることです。わたしたちが人にあわれみ深くあるなら、主はわたしたちにあわれみを与え(IIテモテ1:16、18)、特に彼の裁きの座で与えられます(ヤコブ2:12―13)。 |
マタイ 5:8 注1 |
心が純粋であるとは、目的が単一であること、神のみこころを達成して神に栄光を帰すというただ一つの目標を持つことです(Iコリント10:31)。これは天の王国のためです。わたしたちの霊は、キリストを受け入れる器官です(ヨハネ1:12.3:6)。わたしたちの心は、キリストが命の種として成長する土地です(13:19)。天の王国のために、わたしたちは霊の中で貧しく、霊の中で空である必要があります。それは、わたしたちがキリストを受け入れることができるためです。また、わたしたちの心は純粋で、単一である必要があります。それは、キリストが何の妨げもなく、わたしたちの中で成長することができるためです。 |
マタイ 5:8 注2 |
わたしたちの心が、神を追い求める上で純粋であるなら、わたしたちは神を見ます。神を見ることは、心が純粋である者に対する褒賞です。この祝福は今日、与えられ、来たるべき時代でも与えられます。 |
マタイ 5:9 注1 |
反逆者サタンは、すべての反逆の扇動者です。天の支配下にあるわたしたちは、天の王国のために、すべての人との間に平和をつくる者でなければなりません(ヘブル12:14)。 |
マタイ 5:9 注2 |
わたしたちの父は平安(平和)の神であり(ローマ15:33.16:20)、平和の命と平和の性質を持っておられます。彼から生まれた者として、平和をつくる者でありたいなら、わたしたちは神の神聖な命の中で、彼の神聖な性質にしたがって振る舞わなければなりません。このようにして、わたしたちは神の命と性質を表現し、神の子と呼ばれます。 |