出典 |
フットノート |
マタイ 5:18 注1 |
千年王国の後、新天新地が到来し、古い天と古い地は過ぎ去ります(啓21:1.ヘブル1:11―12.IIペテロ3:10―13)。律法が取り扱うものは、千年王国の終わりまで及ぶだけです。預言者が扱うものは、新天新地にまで及びます(イザヤ65:17.66:22)。ですから、17節で律法と預言者が言及されているのに、18節では律法だけで、預言者が述べられていないのです。 |
マタイ 5:18 注2 |
文字どおりには、イオタ(iota)。ヘブル語アルファベットの中で一番小さい、英語のコンマのような形の「ヨッド」(yod)と等しい。 |
マタイ 5:18 注3 |
ギリシャ語は「ケライア(keraia)」。角(つの)、突起を意味し、ヘブル語の文字の角(かど)のある部分のことを言います。 |
マタイ 5:19 注1 |
ここの「戒め」は、18節の律法のことを言っています。王国の民は、律法を成就するだけでなく、律法を補足します。ですから、彼らは律法のどの戒めも無効にしません。 |
マタイ 5:20 注1 |
ここの義は、客観的な義のことを言っているだけではありません。それは、わたしたちが信じた時に受けたキリストであり、こうしてわたしたちは神の御前に義とされます(Iコリント1:30.ローマ3:26)。この義はそれにもまして、主観的な義のことを言っています。それは、わたしたちの義として、わたしたちから生かし出された内住のキリストです。それは、わたしたちが今日、王国の実際にあずかり、将来その出現の中に入ることができるためです。この主観的な義は、古い律法を成就することによるだけでなく、御言のこの区分で新しい王が与えられた天の王国の新しい律法を成就することを通して、古い律法を補うことによって得られます。王国の新しい律法による王国の民の義は、古い律法による聖書学者やパリサイ人の義にまさります。わたしたちの天然の命には、この卓越した義を得る力はありません。それはさらに高い命、キリストの復活の命によってのみ生み出されます。この義は、婚宴の衣服にたとえられており(22:11―12)、わたしたちが小羊の婚宴にあずかり(啓19:7―8)、天の王国の出現の時にそれを受け継ぐ、すなわち将来、天の王国に入るよう資格づけます。 聖書学者とパリサイ人の義は、文字における義であり、彼らの天然の命によって、古い律法の文字にしたがって実行されました。王国の民の卓越した義は、命における義であり、新しい命の法則にしたがって、彼らがキリストを命とすることによって生かし出されました。命の義は、その性質と水準の両方において、聖書学者やパリサイ人の命のない義にまさっています。 |
マタイ 5:20 注2 |
第2章4節のノート1を参照。 |
マタイ 5:20 注3 |
神の王国に入ることは、わたしたちが再生され、命の新しい開始を持つことを要します(ヨハネ3:3、5)。天の王国に入ることは、再生の後、わたしたちの生活における卓越した義を要します。天の王国に入ることは、今日その実際の中で生きることと、将来その出現にあずかることを意味します。 |
マタイ 5:22 注1 |
「あなたがたは聞いている」(21、27、33、38、43節)で終わっている事柄は、旧経綸の律法です。「わたしはあなたがたに言う」(22、28、32、34、39、44節)で始まっている事柄は、旧経綸の律法を補足する王国の新しい律法です。 |
マタイ 5:22 注3 |
「兄弟」という言葉は、ここの王の言葉が信者たちに語られていることを証明します。 |
マタイ 5:22 注2 |
旧経綸の律法は、殺人の行為を取り扱います(21節)。しかし王国の新しい律法は、怒り、すなわち殺人の動機を取り扱います。ですから、王国の新しい律法の要求は、旧経綸の律法の要求よりも深いのです。王国の新しい律法を満たすには、新創造の高い命が必要です。 |