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出典

フットノート

マタイ 5:13 注5 人に踏みつけられるとは、何の役にも立たないちりのように取り扱われることです。
マタイ 5:14 注1 光は暗やみの中にある人を照らすともし火の輝きです。暗い世にとって、天の王国の民はそのような光であり、世の暗黒を取り去ります。彼らは、性質においてはいやす塩であり、振る舞いにおいては輝く光です。
マタイ 5:14 注2 王国の民は輝く光として、山の上にある町、隠れることができない町のようです。彼らは聖なる都、新エルサレムにおいて、究極的に完成されます(啓21:10―1123―24)。
マタイ 5:15 注1 升は穀物を量るための器具です。ともし火が升の下に置かれていれば、その光は何も照らすことはできません。ともし火である王国の民は、食物と関係のある升によって覆われるべきでありません。升は食べ物に関係しており、食物に関心を持つことは、人を憂えさせます(6:25)。
マタイ 5:15 注2 山の上の町のような光は、外にいる人たちを照らします。燭台の上のともし火は、家の中にいる人たちを照らします。山の上の町としての光は、隠れることができません。燭台の上のともし火としての光は、隠されるべきではありません。
マタイ 5:16 注1 良い行ないは、王国の民の振る舞いです。このような行ないを見ることによって、人は神を見、神にもたらされます。
マタイ 5:16 注3 「あなたがたの父」という称号は、新しい王の聴衆である弟子たちが、再生された神の子たちであったことを証明します(ヨハネ1:12ガラテヤ4:6)。
マタイ 5:16 注2 父なる神に栄光を帰すとは、彼に栄光を与えることです。栄光は表現された神です。王国の民がその振る舞いと良い行ないにおいて神を表現する時、人々は神を見、神に栄光を帰します。
マタイ 5:17 注1 山の上での王の言葉の第三区分(17―48節)は、天の王国の民の律法に関して言っています。
マタイ 5:17 注2 ここで、キリストが律法を成就するとは次のことを意味します。(1) 積極面で、キリストが律法を守られた。(2) 消極面で、十字架上の身代わりの死を通して律法の要求を満たされた。(3) この区分で、キリストは彼の新しい律法によって古い律法を補足しておられる。これは、「しかし、わたしはあなたがたに言う」という言葉で繰り返し現されています(222832343944節)。キリストが律法を守られたことは、彼が十字架上で身代わりとして死なれたことを通して、律法の要求を成就する資格を彼に与えました。キリストが彼の十字架上で身代わりとして死なれたことを通して律法の要求を満たされたことは、律法を補足し、律法を完全に成就するための復活の命をもたらしました。古い律法、すなわち低い律法は、人が守るべき要求や罰せられるべき条件と共に、すべて終わらせられました。王国の民は、御父の子たちとして、今や新しい律法、すなわち高い律法を、復活の命、すなわち御父の永遠の命によって満たす必要があるだけです。古い律法はモーセを通して与えられましたが、新しい律法はキリストご自身によって発布されました。
 律法に関して、律法の戒めと律法の原則の二つの面があります。律法の戒めは、主の到来によって成就され、補足されました。律法の原則は、神の新約エコノミーにしたがって、信仰の原則に置き換えられました。
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