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出典

フットノート

1ヨハ 5:20 注7 真の神の中にいるとは、御子イエス・キリストの中にいることです。神の御子としてのイエス・キリストは、神の化身ですから(コロサイ2:9)、彼の中にいるとは、真の神の中にいることです。これは、神の御子イエス・キリストが、真の神であることを示します。
1ヨハ 5:20 注8 「これ」とは、神のことを言います。彼は受肉を通して来て、わたしたちに、彼が真の神であることを知り、御子イエス・キリストの中で彼と有機的に一となる能力を与えられました。このすべては、わたしたちにとって、真実で実際の神であり、永遠の命です。わたしたちにとって、この真実で実際の神であるすべては、わたしたちにとって永遠の命です。それは、わたしたち再生された者が、すべてとしての彼にあずかるためです。
1ヨハ 5:21 注1 第2章1節(2:1)のノート1を参照。
1ヨハ 5:21 注3 グノーシス派とケリントス派によってもたらされた、異端的代替品のことを言っています。それは、この手紙とヨハネによる福音書で啓示され、前の節で言及された真の神に取って代わります。ここの偶像は、真の神に取って代わるあらゆるものを指します。わたしたちは真の神の子供たちとして、油断なく警戒し、これらの異端的代替品と、真実で実際の神に取って代わるすべてのむなしいものから、自分自身を守らなければなりません。わたしたちはこの神と有機的に一であり、彼はわたしたちにとって永遠の命です。これがこの手紙の結論であり、彼のすべての小さい子供たちに対する老齢な使徒の警告の言葉です。
 この手紙の啓示の中心は、神聖な命の神聖な交わり、神の子供たちと彼らの父なる神との交わりであり、父なる神は神聖な命の源であるだけでなく、神聖な命の享受の源としての光と愛でもあります(1:1―74:8,16)。神聖な命を享受するためには、神聖な誕生の発展のための神聖な種を伴う神聖な誕生に基づき(2:29―3:10)、神聖な油塗りにしたがって、その交わりの中に住む必要があります(2:12―283:24)。この神聖な誕生は、三つの手段によって遂行されました。それは終わらせる水、贖う血、発芽させる霊です(1―13節)。これらによって、わたしたちは神から生まれて神の子供たちとなり、彼の神聖な命を所有し、彼の神聖な性質にあずかっています(2:29―3:1)。彼は今、彼の霊を通してわたしたちに内住しておられ(3:244:4,13)、わたしたちの命また命の供給です。それは、わたしたちが彼の神聖な要素をもって成長し、彼の現れの時に彼の姿に似るためです(3:1―2)。神聖な命の神聖な交わりの中に住むこと、すなわち主の中に住むことは(2:63:6)、彼の神聖な豊富のすべてを享受することです。そのように住むことによって、わたしたちは神聖な誕生を通して受けた神聖な命によって(2:294:7)、神聖な光の中を歩き(1:5―7)、真理、義、愛、神のみこころ、彼の戒めを守ります(1:62:29,53:10―112:175:2)。神聖な交わりの中にこのように住むことを保持するのには、三つの主要な否定的事柄が取り扱われる必要があります。第一は罪、すなわち不法と不義です(1:7―2:63:4―105:16―18)。第二は世であり、それは肉の欲、目の欲、生活の虚栄から成っています(2:15―174:3―55:4―5,19)。最後は偶像であり、それは本物の神に取って代わる異端的代替品と、真の神に取って代わるむなしいものです(21節)。これらのはなはだしく邪悪なものの三つの部類は、わたしたちが神聖な交わりの中に住むのをざ折させ、阻害し、さらにできることなら絶滅さえさせるために、邪悪な者、悪魔によって用いられる武器です。この邪悪な行為に対抗する安全保障は神聖な命を伴うわたしたちの神聖な誕生です(18節)。また神の御子が十字架上の死を通して悪魔のわざを滅ぼされた事実に基づいて(3:8)、わたしたちは内側に住む神の言葉によって、彼に打ち勝ちます(2:14)。わたしたちの神聖な誕生のゆえに、わたしたちはまた神の御子に対するわたしたちの信仰によって(4―5節)、悪魔の邪悪な世に打ち勝ちます。さらに、わたしたちの内なる存在にまかれた神聖な種を伴うわたしたちの神聖な誕生は、わたしたちを罪の中で習慣的に生きないようにさせることができます(3:95:18)。なぜならキリストは、肉体における死を通して罪を取り除かれたからです(3:5)。わたしたちが時として罪を犯すような場合には、父なる神の御前でわたしたちの問題を顧みるためのなだめの供え物として、わたしたちの弁護者がおられます(2:1―2)。そして彼の永遠に効き目のある血がわたしたちを清めます(1:7)。そのような啓示が、使徒の繕う務めの基本的で実質的な要素です。
1ヨハ 5:21 注2 すなわち、異端の襲撃のような、外部からの攻撃に対して自分自身を防備しなさい。
2ヨハ 1:1 注1 使徒ヨハネもペテロと同じように、紀元70年のエルサレム崩壊の前、エルサレムに在る召会の長老でした(ガラテヤ2:9.Iペテロ5:1のノート3)。歴史によれば、ヨハネは追放から帰った後、アジアの諸召会を顧みるためにエペソに滞在していました。ですから彼は、おそらくエペソに在る召会の長老でもあったので、そこでこの手紙を書いたのでしょう。
2ヨハ 1:1 注2 ギリシャ語は「クリア」(kuria)。「主」、「主人」を意味するキュリオス(kurios)の女性形。ここの言葉にはさまざまな解釈があります。最も好ましいものは次のとおりです。すなわち、ペテロの第一の手紙第5章13節(Iペテロ5:13)で「同じ選ばれた者」と言っているように、召会内のある際立ったあるクリスチャン姉妹のことを指すとする解釈です。クリア(kuria)は彼女の名であったかもしれません。それは当時、一般的な名であったからです。ある者はこのように言います―歴史の告げるところでは、彼女はエペソの近くに住んでおり、また彼女の姉か妹(13節)がエペソに住んでいて、そこの召会をヨハネが顧みていました。彼女のいる地方に一つの召会があり、彼女の家庭で集会をしていました。
2ヨハ 1:1 注3 ヨハネの「真理」という言葉と同じ。ヨハネの使い方によれば、特に彼の福音書において、ここの「真理」は啓示された神聖な実際―御子イエス・キリストにおいて人の中に分与された三一の神が人の純真と誠実となって、神聖な光(ヨハネ3:19―21)と一致する命を生き、神が求めておられるように、神が何であるかにしたがって(ヨハネ4:23―24)、神に礼拝することを示します。これは神の美徳であり(ローマ3:715:8)わたしたちの美徳となって、それによってわたしたちは信者たちを愛します(参照,Iヨハネ1:6のノート6の要点7)。三一の神聖な実際の中で生きていた使徒ヨハネは、そのような真実の中で手紙をあてた人を愛しました。
2ヨハ 1:1 注5 福音の神聖な実際(参照、Iヨハネ1:6のノート6)、特にヨハネによる福音書とヨハネの第一の手紙で啓示されたような、キリストのパースンに関する真理を示しています。すなわち、キリストは神と人の両方であり、神格と人格の両方を持っており、神の性質と人の性質の両方を所有しておられる、それは人の生活の中で神を表現し、人の肉体の中で、神聖な力をもって、堕落した人のために贖いを達成し、神聖な命を彼らの中に分与して、彼らを神との有機的結合にもたらすためである、ということです。ヨハネの第二、第三の手紙はこの真理を強調しています。第二の手紙は、この真理(キリストについての教え)の中に住んでいない者たちを、忠信な信者たちは受け入れてはならないと警告しています。第三の手紙は、この真理のために働く人たちを受け入れ、助けるよう信者たちを励まします。
2ヨハ 1:1 注4 キリストが神と人の両方であることを信じることによって、彼を受け入れただけでなく、キリストのパースンについての真理をよく知っていた人たち。
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