出典 |
フットノート |
ユダ 1:15 注1 |
主の来臨は神の統治上の裁きを遂行し、すべての不敬虔な者を対処するためです。Iペテロ第1章17節(Iペテロ1:17)のノート2の第二段落を参照。 |
ユダ 1:16 注1 |
文字どおりには、顔。 |
ユダ 1:18 注1 |
IIテモテ第3章1節(IIテモテ3:1)のノート2を参照。 |
ユダ 1:19 注1 |
「魂」の形容詞形。「プシュケ(psyche―魂)は人格の中心、各個人の『わたし』である。それは各人の中で、人のより高い部分である霊とつながり、人のより低い部分である体とつながる。一方によって上へと引かれ、他方によって下へと引かれる。低い方の欲望に身を任せる者は肉的である。人の霊と神の霊との交わりによってより高い目標に向かう者は、霊的である。途中にとどまっていて、動物的、知的いずれにしても、自分と自分の利益だけを考えているのは、プシュキコスpsychikos、利己的(魂的)な人であり、霊が沈み堕落して、下級のpsyche(魂)に属している人である」(アルフォード)。 |
ユダ 1:19 注2 |
人の霊であって、神の霊ではありません。背教者は霊を欠いています。彼らは「自分の三部分性の一部分としての霊を持つのを実際にやめたわけではないが(Iテサロニケ5:23)、それを価値ある意味において持つことをやめたのである。それは堕落してプシュケ(魂)の力、個人的命の下になり、それ自身の真の活力を持たないほどになったのである」(アルフォード)。彼らは自分の霊を顧みませんし、またそれを活用しません。彼らは自分の霊によって神の霊との交わりの中で、神と接触しません。また自分の霊の中で生き、歩くこともしません。彼らは肉によって下へと引きずり下ろされ、肉となりました。ですから彼らは良心の感覚を失い(参照,IIペテロ2:12のノート2)、理性のない動物のようになりました(10節)。 |
ユダ 1:20 注2 |
客観的な信仰。わたしたちが信じるキリストにある救いの新約の尊い事柄を指しています(参照,3節のノート3)。この聖い信仰の土台の上に、またその領域の中で、聖霊の中で祈ることを通して、わたしたちは自らを建て上げます。わたしたちが把握している信仰の真理と、わたしたちの祈りを通して享受する聖霊は、わたしたちが建て上げられるために必要です。その信仰とその霊はいずれも聖いです。 |
ユダ 1:20 注1 |
あるいは、において。 |
ユダ 1:21 注1 |
わたしたちは聖い信仰の上に自らを建て上げ、また聖霊の中で祈ることによって(20節)、自分自身を神の愛の中に保つべきです。こうしてわたしたちは、この時代に永遠の命を享受するだけでなく、それを永遠にわたって相続するようにと(マタイ19:29)、わたしたちの主のあわれみを待ち望み、期待します。 |
ユダ 1:21 注4 |
永遠の命、神の命を相続することと享受することを言っています。このことは、わたしたちの霊的追求の到着点です。この到着点を目ざすがゆえに、わたしたちは神の愛の中に守られることを願い、わたしたちの主のあわれみを待ち望みます。 |
ユダ 1:21 注3 |
祝福された三一の全体は、信者たちが聖霊の中で祈り、彼ら自身を神の愛の中に保ち、永遠の命へと至らせるわたしたちの主のあわれみを待ち望むことにおいて、彼らによって用いられ、享受されます。 |