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出典

フットノート

マタイ 2:20 注1 文字どおりには、魂。
マタイ 2:22 注1 ガリラヤは異邦人に属し(4:15)、人々にさげすまれていました(ヨハネ7:4152)。キリストは尊ばれたユダヤで生まれましたが、さげすまれたガリラヤで育てられました。
マタイ 2:23 注1 神の主権の按配の下で、皇帝アウグストはローマ帝国の最初の人口調査を命じました(ルカ2:1―3)。この人口調査を通して、キリストはベツレヘムで生まれ(ルカ2:4―7)、この誕生に関する予言(ミカ5:2)は成就されました。彼はそこに短い間、滞在しました。それからヘロデの迫害のために、彼はエジプトに逃れ(13―15節)、その後イスラエルの地に戻りました(19―21節)。父ヘロデに代わってアケラオがユダヤを治めていたために、キリストはガリラヤのさげすまれた町ナザレ(22―23節ヨハネ1:45―46)に連れて来られ、そこで育てられました。彼は尊ばれた町ベツレヘムで生まれましたが、さげすまれたナザレの町で成長しました。ですから彼は、ナザレ人と呼ばれたのです。キリストに従うには、聖書の彼に関する部分に注意するだけでなく、ヨセフが彼の夢の中で得たような、その場その時に即した導きにも注意する必要があります。わたしたちがこのような即時的な導きを軽視して、聖書にだけ注意を払うなら、ユダヤの祭司たちや聖書学者たちのように、キリストを見失うでしょう。即時的な導きに注意を払うためには、追い求める心を持つ必要があります。
マタイ 2:23 注2 第1章22節のノート1を参照。
マタイ 2:23 注3 「預言者たち」という複数形の言葉は、これがある特定の予言ではなく、幾つかの予言(詩22:6―7のような)の意義の要約であることを示します。「ナザレ人」という称号は、イザヤ書第11章1節(イザヤ11:1)の枝(ヘブル語は「ネツェル[netzer]」)のことを言っているのでしょう。そこの枝はキリストを象徴しており、ダビデの父、エッサイの株からの小枝のことを言っています。イエスが生まれた時、ダビデの王座はすでに転覆させられていました。これは、ダビデの王族の茎が切断されていたことを意味します。今や新しい小枝がエッサイの株から出て、その根から成長しました。この発芽と成長は、恥辱の状態の中で起こりました。イエスは承認され、あがめ尊ばれた王家に生まれたのではなく、エルサレムのような有名な町で成長したのでもありません。むしろ、彼は貧しい家庭に生まれ、さげすまれた町で育ちました。これらすべては、彼をナザレ人、堂々とした木の見事な枝ではなく、エッサイの株からの一見つまらない芽にしました。
マタイ 3:1 注1 律法の時代は、バプテスマのヨハネの到来によって終わりました(11:13ルカ16:16)。ヨハネのバプテスマに続いて、平和の福音の宣べ伝えが始まりました(使徒10:36―37)。ヨハネの宣べ伝えは福音の開始でした(マルコ1:1―5)。ですから、恵みの時代はヨハネで始まったのです。
マタイ 3:1 注2 ヨハネのバプテスマの宣べ伝えは、神の新約エコノミーの開始でした。彼はこの宣べ伝えを、聖なる都の聖なる宮では行ないませんでした。そこでは宗教的な人たちや文化的な人たちが、聖書からの規定にしたがって神を礼拝していました。ヨハネは荒野において「野蛮な」方法で、古い規定を何も守らずに行なっていました。これは、旧約による神を礼拝する古い方法が終わらせられ、新しい方法がもたらされようとしていたことを示します。ここで「荒野」は、神の新約エコノミーの新しい道が、宗教や文化と対立していることを示します。それはまた、古いものが何も残されず、新しいものが 建造されていたことを示します。
マタイ 3:2 注1 「悔い改め」るとは、思いを変え、その結果、悔いて、目標を変えることです。
マタイ 3:2 注2 「天の王国」の天は、原文は複数。本書全体にわたってそうです。バプテスマのヨハネの宣べ伝えにおいて、悔い改めは神の新約エコノミーの開始であり、天の王国に向きを変えることでした。これは、神の新約エコノミーの焦点が、彼の王国にあることを示しています。このために、わたしたちは悔い改めるべきです。すなわち、わたしたちの思いを変え、わたしたちの人生の追求に変化を持つべきです。わたしたちが求めていた目標は、別の事でした。今やわたしたちは、神とその王国に向きを変えなければなりません。この王国は、マタイによる福音書で、特に、ことさら、「天の王国」と呼ばれています(参照、マルコ1:15)。マタイによる福音書全体の文脈によれば、天の王国は、メシヤ王国のことを指しているのではありません。メシヤ王国は、復興されたダビデの王国(再建されたダビデの幕屋―使徒15:16)です。それはイスラエルの子たちから成っており、その性質は地的で物質的です。ところが天の王国は、再生された信者で構成されており、天的で霊的です(参照、5:3のノート4)。
マタイ 3:2 注3 これは明らかに、バプテスマのヨハネの来る前は、天の王国がまだなかったことを示します。ヨハネが出現し、宣べ伝えていた間でさえ、天の王国はまだありませんでした。それはただ、近づいていただけでした。主がその務めを開始された時も、また彼が弟子たちを宣べ伝えに遣わされた時でさえも、天の王国はまだ来ていませんでした(4:1710:7)。ですから主は、第13章の最初のたとえ話(13:3―9)、種まきのたとえ(主の宣べ伝えを示す)の中で、「天の王国は・・・・のようである(あるいは、のようになった)」とは言われなかったのです。第二のたとえ話(13:24)、すなわち毒麦のたとえ話(ペンテコステの日の召会の設立を示す)で初めて、主はそう言われました。マタイによる福音書第16章18節から19節で、「召会」と「天の王国」が交換可能な言葉として用いられていることは、召会が設立された時に天の王国が来たことを証明します。
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