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出典

フットノート

マタイ 3:9 注1 ユダヤ人が悔い改めなかったので、この言葉と10節の言葉の両方は成就されました。神はユダヤ人を切り離し、信じる異邦人を興して信仰によるアブラハムの子たちとされました(ローマ11:15前半、19―2022ガラテヤ3:728―29)。この節のヨハネの言葉は、彼によって宣べ伝えられた天の王国が、生まれながらのアブラハムの子たちから成るのではなく、信仰によるアブラハムの子たちから成ることをはっきりと示しています。ですからこの王国は、天の王国であって、地上のメシヤ王国ではありません。
マタイ 3:11 注1 文脈によると、ここの火は、聖霊と関係のある使徒行伝第2章3節の火ではなく、10節と12節と同じ火で、火の池の火です(啓20:15)。この火の池の中で、未信者たちは永遠の滅びを被ります。ここでパリサイ人とサドカイ人に告げられたヨハネの言葉は、もしパリサイ人とサドカイ人が真に悔い改めて主を信じるなら、主は彼らを聖霊の中にバプテスマし、彼らは永遠の命を得ること、もし信じなければ、主は彼らを火の中にバプテスマし、すなわち彼らは火の池に投げ入れられ、永遠の刑罰を受けることを意味します。ヨハネのバプテスマは、人々を悔い改めさせ、主への信仰に導くだけでした。主のバプテスマは、聖霊の中での永遠の命、あるいは火による永遠の滅びのためです。聖霊の中への主のバプテスマは天の王国を開始し、彼の信者たちを天の王国にもたらします。しかし彼の火の中へのバプテスマは天の王国を終わらせ、未信者たちを火の池に投げ入れます。ですから、贖いに基づく聖霊の中へのバプテスマは天の王国の開始であり、裁きに基づく火によるバプテスマはその王国の終わりです。こうして、この節には三種類のバプテスマがあります。水の中へのバプテスマ、聖霊の中へのバプテスマ、火の中へのバプテスマです。ヨハネによる水のバプテスマは、人々を天の王国へ導きました。主イエスによる聖霊のバプテスマは、ペンテコステの日に天の王国を開始し、設立しました。この時代の終わりまでそれは続き、完成に至ります。大いなる白い御座の裁きにしたがって(啓20:11―15)、主の火の中へのバプテスマは、天の王国を終わらせます。
マタイ 3:12 注1 小麦で予表される人たちは、内側に命を持っています。主は彼らを聖霊の中にバプテスマし、携え上げによって空中の納屋に収めます。もみ殻で予表される人たちは、第13章24節から30節の毒麦のように、命を持っていません。主は彼らを火の中にバプテスマし、火の池に投げ入れます。ここのもみ殻は、悔い改めないユダヤ人のことを言っています。第13章の毒麦は、名だけのクリスチャンのことを言っています。もみ殻も毒麦も、同じ永遠の運命を持っています。すなわち、彼らはみな火の池で滅びるのです(13:40―42)。
マタイ 3:12 注1 小麦で予表される人たちは、内側に命を持っています。主は彼らを聖霊の中にバプテスマし、携え上げによって空中の納屋に収めます。もみ殻で予表される人たちは、第13章24節から30節の毒麦のように、命を持っていません。主は彼らを火の中にバプテスマし、火の池に投げ入れます。ここのもみ殻は、悔い改めないユダヤ人のことを言っています。第13章の毒麦は、名だけのクリスチャンのことを言っています。もみ殻も毒麦も、同じ永遠の運命を持っています。すなわち、彼らはみな火の池で滅びるのです(13:40―42)。
マタイ 3:13 注1 主イエスは人として、神の新約の道にしたがって、バプテスマのヨハネによってバプテスマされるために来られました。四福音書のうち、ヨハネだけがイエスのバプテスマの記録を載せていません。なぜなら、ヨハネはイエスが神であることを証ししているからです。
マタイ 3:15 注1 義は、神が定められた道によって生き、歩み、事を行なうことによって正しくあることです。旧約では、神が与えられた律法を守ることが義でした。今や神はバプテスマのヨハネを遣わして、バプテスマを設立されました。バプテスマされるとは、神の御前に義を満たすこと、すなわち神の要求を満たすことでもあります。主イエスは、神としてではなく、典型的な人として、真のイスラエル人として、ヨハネの所に来られました。ですから彼は、この神の経綸上の実行を守るために、バプテスマされなければなりませんでした。そうでないと、彼は神に対 して正しくないことになったでしょう。
マタイ 3:16 注1 主がバプテスマされたのは、神の定めにしたがって義を満たすためだけではなく、ご自身を死と復活の中に置き、彼が天然の道ではなく復活の道によって、務めをされるためでもありました。バプテスマされることによって、三年半後の事実上の死と復活の前でさえ、彼は復活の中で生き、務めをなすことができました。
マタイ 3:16 注2 主がバプテスマされて、神の義を満たし、死と復活の中に入れられることは、彼に三つの事をもたらしました。すなわち開かれた天、下った神の霊、御父の語りかけです。それは、今日のわたしたちについても同じです。
マタイ 3:16 注3 神の霊が下って、彼の上に来る前に、主イエスはすでに聖霊から生まれていました(ルカ1:35)。これは、彼がバプテスマの時、すでに内側に神の霊を持っておられたことを証明します。神の霊がイエスと共におられたのは、彼の誕生のためでした。今やイエスの務めのために、神の霊は彼の上に下られました。これはイザヤ書第61章1節、第42章1節、詩篇第45篇7節の成就であって、新しい王として油塗り、彼をその民に紹介するためでした。
マタイ 3:16 注4 はとは柔和で、その目は一度に一つのものしか見ることができません。ですから、はとは、見ることと目的における柔和と単一さを象徴します。神の霊が、はとのように彼の上に下って来ることによって、主イエスは柔和と単一の中で、ただ神のみこころにだけ焦点を合わせ、務めを成されました。
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